第三の目のチャクラを開く瞑想|サードアイチャクラを開く瞑想

This Meditation Will Open Your Third Eye INSTANTLY WARNING THERE’S NO GOING BACK · ゆきんこの勉強法 | 自修人

「言葉」と「感情」の色辞典

宇宙のすべては周波数だということらしい。

ということは「感情を表す言葉」「色」などは、周波数なのだと思うので、色空間のような立体図形に整理できると踏んだ。

「統合」といっても、とりとめもないので、「感情を表す言葉」や「その感情を起こさせる場面(漫画、アニメ、小説?)」を考えて、そこで感じるモヤモヤを効率よく

色空間 - Google 検索

ネガティブな感情
【怒り】
行動パターン:リスクを軽く考え、直感的に情報を処理する。対人関係では、信頼しにくくなり、協力的でなくなる。
【イライラ】
行動パターン:リスクを軽く考え、直感的に情報を処理する。
【悲しみ】
対人関係では、信頼しにくくなり、協力的でなくなる。
【恥】
行動パターン:リスクを軽く考える。
【罪】
行動パターン:リスクを軽く考える。対人関係では、信頼しやすくなり、協力的になる。
【不安/恐怖】
行動パターン:リスクに敏感になり、論理的に情報を処理する。
ポジティブな感情
【幸せ】
行動パターン:未知のリスクを軽く考え、直感的に情報を処理する。
【誇り】
行動パターン:未知のリスクを軽く考え、直感的に情報を処理する。対人関係では、信頼しにくくなり、協力的でなくなる。
【安心】
行動パターン:特になし。
【感謝】
行動パターン:リスクに敏感になる。対人関係では、信頼しやすくなり、協力的になる。
【希望】
行動パターン:未知のリスクに敏感になり、論理的に情報を処理する。対人関係では、信頼しやすくなり、協力的になる。
【驚き】
行動パターン:未知のリスクに敏感になり、論理的に情報を処理する。対人関係では、信頼しやすくなり、協力的になる。

引用元: 幸せになる為の感情チェックリスト | みんなの心理

ロバート・プルチック(Robert Plutchik)

Plutchik氏の「感情の輪」から学ぶエモーショナルデザイン | UX MILK

Plutchik氏の感情の輪に対する最大の批判は、「自尊心」と「恥」の組み合わせを考慮していないため不十分である、というものです。

引用元: Plutchik氏の「感情の輪」から学ぶエモーショナルデザイン | UX MILK

怒り(anger)

怒りの裏側には、「こうであるべき」という固定観念が必ずある。

「こうであるべき」からはずれたことをする人に対して怒る。 これが多いパターンだと思う。

「自分に対しての怒り」=「自分イジメ」のパターンも同じだ。

「自分はこうあるべきだ」という「現状を肯定しない」=「自分に対して、自分が妄想した理想を押し付ける」とき、自分に対する怒りや絶望が生まれてくる。

イライラ(irritation)

悲しみ(grief)

恥(shame)

罪(sin)

不安/恐怖(uneasiness fear)

幸せ(happiness)

誇り(pride)

安心(easiness)

感謝(gratefulness)

希望(hopefullness)

いや、ハッキリ言って、希望を持っている時点で、願いは叶わないよ。

希望を持つほど、夢は逃げていく。 これが1つのトラップなんだ。

「すでに叶っている」という周波数を使えば、必ず叶う。 これが秘密にされてきたこと。

The Vibration of Wanting VS Having and How to Make the SHIFT · ゆきんこの勉強法 | 自修人

驚き(amazingness)

私はbookish(学者ぶって小難しい言い方をする状態)なんだって

寝起きに「bookish」とゆわれたよ。

自分を守護してくれる存在たちの1人がゆったのだと思う。 なんでいつも英語なん? 


ちゃんと説明しようと思うと、言葉が堅苦しくなるので、ごめんなさい。

私たちは「かぎりある資源」という特殊な時空を体験してきた

宇宙には、「かぎりある資源」と「かぎりなき資源」がある。

例えば、水を分かち合うとき、与えた人の水は減る。 このとき、水は「かぎりある資源」と捉える。

例えば、炎を分かち合っても、与えた人の炎は減ることがない。 このとき、炎は「かぎりなき資源」と捉える。


以上のような考え方は、「分離の時空」「制限・有限さを体験する時空」でだけ通用する考え方だと思う(個人の感想です)。


宇宙は本質的に、数値や波動で構成されている世界だといわれる。 つまりコンピュータの中みたいになっているらしい。

ということは、物質だってコピー可能なんだと思う。


例えば、水を分かち合うとき、与えた人の水は減る。 このとき、水は「かぎりある資源」と捉える。

以上の条件は、(学びのために?)特別に一時的に「リミテッド・モード」でシステムを立ち上げたときにだけ起こる現象だと思う。

宇宙を「スタンダード・モード」で立ち上げると、物質も含めて、すべての要素は複製可能(replicable:レプリカブル/replicatable:レプリケイタブル)なのだと思う。

例えば、サティヤ・サイ・ババが空間から物質を取り出すのだって、手の中でレプリケーターと同じ仕組みが働いているのだと思う。

イメージとして思念し、そのイメージしたものを「波動の転写」によって、手の中に写し取ると、空間から物質を取り出したかたちになる。 アセンション後の世界は、そんなふうなことが当たり前になるのかもしれない。

コンピュータの世界は、すべてを数値に置き換えて、複製可能な世界になっている。

コンピュータはたぶん、この宇宙の写し絵であって、「宇宙もコンピュータのようになっている」「コンピュータも宇宙のようになっている」ということなのだろう。

「数値や波動」は複製可能。

宇宙の自然な状態では、物質も含めて「数値や波動」でつくられている。

だから、宇宙の自然な状態では、物質も含めて複製可能(replicable:レプリカブル/replicatable:レプリケイタブル)なのだと思う。

「宇宙の自然な状態では、物質も含めて複製可能」。

これが「この宇宙のかぎりなき豊かさ」を支えている、根本原理なのだと思う。

自分の中の「きたない部分」「弱い部分」「小ずるい部分」「卑怯な部分」「怠惰で後回しにする部分」まで、つまりは、すみずみまできれいに「統合」して掃除をしていくことが、目覚めた状態をキープする方法であるようだ。

どんなに高次の存在も、いや、高次の存在であればなおさら、「統合」に次ぐ「統合」をおこなって、自分のズレを訂正し、目覚めた状態をキープする「浄化活動」に余念がないらしい。

クソをしない日は1日たりとてない。

毎日のクソ。

しかし私たちは、クソをするように、毎日「統合」をしているだろうか?  お恥ずかしいかぎりである。

毎日クソをするように、毎日「統合」をするのだ。

クソをするとき忘れぬように、便所の目の前に「統合」とマジックで書いた紙を貼っておきましょう。


このマトリックスが崩壊したら、宇宙は複製可能/コピー可能な世界であることが全開バリバリになると思う。

例えば、レプリケーターがあれば、手足が失われた人でも、手足を再生することができるとか。 癌になった臓器を新しい臓器と入れ替えることができるとか。

いや、「イベント」と呼ばれる大転換の時間帯を過ぎたあとは、私たちの肉体は、「この肉体」ではなくなっているのだと思う。

詳しいことは知らないけれども、「炭素主体のこの肉体」から「ケイ素主体のあの肉体」へと私たちが移行する時間帯を「イベント」というらしい。

アセンションコードは、この「イベント」のときに発動するらしい。 だからアセンションコードも真面目に書き写す必要がある。

絞り込む。 いいかえれば、他を捨て去る。

そういう割り切りが大事であり、あとはあんまりスピリチュアルな情報を入れないほうがいいかもしれない。

自分が信頼しているソースだけに限定して、そこを深掘りしていくのがよいと感じている。

というのも、スピリチュアルな情報の中には、インチキ情報も混じっているから。

情報というものは、「多くの人がゆっている情報を総合して考える」ものではないと思う。

本当に役立つ情報は、誰もまだゆっていない、誰もまだ知らない情報領域から送られてくる。

あるいは、情報は直感として送られてくるから、自分の直感アンテナが高感度を保ち続けるように「統合」して、アンテナにこびりつく、日々のクソをこそげ落とす必要があると思う。

日々暮らしているだけで、クソが身に付くから、クソをこそげ落とし、クソを洗い流し、毎日、風呂に入るような「統合」の日々を送るんだ(決意)。

今のところ集中すべきだと思われるのは、「統合」と「アセンションコードの書き写し」の2点だけだと思う。 この2点に絞り込んで、余裕が生まれてから、追加してゆくスタンスでよいと思う。


レプリケーターは、もちろん、生活物資を複写することにも使われる。 それによって、無限の豊かさがもたらされる。

例えば、野菜を複製することによっていくらでも野菜を手に入れることができる。

例えば、機械類でも、 レプリケーターによって複製することが可能。

だから工場も必要ない。

宇宙の「スタンダード・モード」では、物質も含めて、すべての要素が複製可能である。

その「スタンダード・モード」に戻ることも含めて、「アセンション」なのだと思う。

「ドラえもんのどこでもドアがあれば」というのを含めて、「アセンション」した後には、達成される。

でも宇宙エネルギーだって、調和/バランスの中で使わないと、「レプリケーターの使いすぎで空間がクラッシュする」とか、ふつうにありそうだと思う。

とにかく、足るを知る。 小欲知足が基本になると思う。

外側に求めず、内的な満足感にフォーカスすること。 つまり「私は満たされていて、うれしい」という感覚をキープすること。 結果として、スクリーンに、心の満足感の「結晶」である、豊かさの結果を投影すること。 そういう状態をキープする必要があるらしい。

とにかく、このタイミングに地球に転生したということは、「アセンション」を完遂するというミッションを帯びて転生したのだと、私は思う。

だから「アセンション」以外のことは、もはや「ドウデモイイ」と言っても過言ではないと思う。

悲しみは分かち合えない

宇宙には、「かぎりある資源」と「かぎりなき資源」がある。

例えば、水を分かち合うとき、与えた人の水は減る。 このとき、水は「かぎりある資源」と捉える。

例えば、炎を分かち合っても、与えた人の炎は減ることがない。 このとき、炎は「かぎりなき資源」と捉える。


悲しみでも、喜びでも、波動というものは、共振によって、かぎりなく増殖することができる。

それゆえ、波動は「かぎりなき資源」だといえる。

悲しみが「かぎりなき資源」だということは、悲しみに同情すると、悲しみが共振によって2倍になるだけであることを意味する。

「悲しみを減らす」ことを目的に、悲しい話を聞いてあげることは、悲しみが共振によって2倍になるだけなので、やめたほうがいい。

悲しみを分かち合うことで、悲しみを減らすことはできない。

「悲しみをシェアする」とは、「共振によって悲しみをコピーする」ということに等しい。

さらにいえば、そこで起こっていることは波動の共振であり、共振であるから、波の合成によって、より強い「悲しみの波動を生む場」ができてしまう。

悲しみを分かち合うことで、悲しみを減らすことはできない。

悲しみを減らしたいのだったら、悲しんでいる当人が、悲しみの波動を手放すと決意して、具体的に「統合」ワークを積み重ねてゆくことである。


「悲しい理由を探る」ということが有効なのは、「こういう刺激を受けたとき、悲しみを感じた。その背景にある自分の思考パターンはどういうものか?」といった、 自分が握り込んでいる信念体系を特定する場合だけだと思う。

こういう信念体系を握り込んでいるから、こういう場面に遭遇したとき、とりわけ強い悲しみを感じるのだ。

そういったふうに、「根っこを探り当てる」場合にのみ、悲しみの原因を追求する価値があるのだと思う。

悲しみにまつわる周辺情報が好きだから、その部分をネチネチいじくり回すために、悲しみの原因とかをダラダラ考えるのは、ダメなやり方だと私は思う。

理由とかどうでもいいから、まずは「統合」しろよ、ということだと思う。

「統合」していけば、根っこの部分が出てくるだろうから、とにかく、考えすぎないで、ズンズン「統合」していけばいいのだと思う。


悲しみの感情というものは、洞窟で声を出すと響き渡るようにして、反響する。

反響するけれども、それ以上、悲しみを自分で増大させなければ、反響はやがて停止する。

反響が停止しないとしたら、自分で悲しみの波動を発信しているからだ。

つまり自分で悲しみの波動を握りしめているので、それが発信源になって、いつまでも反響が続いているだけである。

「音源」である悲しみの波動を手放す行為・ワークを現実に、具体的におこなわないかぎり、いつまでも反響が続くことになる。

「波動を手放す行為・ワーク」とは、「統合」である。

このイヤな波動を手放そうと本気で決意して、黒い鉄柱でも、黒い鉄球でもいいから、何かの具体物にして、地球の中心にスポーンと投げ入れると、地球の中心がみなもとと通じているので、みなもとに吸い込まれる。

そうして、本来のみなもとである頭上の光の大きな球体から、黒い鉄柱/鉄球が浄化された光のパイプが降りてきて、その光のパイプで、自分の身体が取り囲まれ、その光がぜんぶ自分の身体に吸収される。

この「統合」ワークをすることによって、その波動との紐付けが解消される。

この「特定の波動との紐付け解消」=「統合」をおこなわないかぎり、いつまでも「悲しみの音源」を持ち歩く人生になってしまう。

「統合」は本人だけの問題であり、代わりに「統合」してあげることはできない。

ヒーラーの中には、代行してしまう人がいるけれども、それについては、「釣り方を教えないで魚を与える」的な違和感、あるいは、不健全なものを強く感じてしまう。 これもジャッジメントなのだろうか? 

「ヒーラーではなく、大天使に直接頼めよ」とか思っちゃうんだよね。

「大天使ミカエルよ、エーテルコードカットをお願いします」って、直接お願いすればいいんだよ。

どうしてヒーラーという地上のエンティティに依存するんだよ? 

大天使も、天使も、アセンデッドマスターも、ハイヤーセルフも、呼べば答える場所にいるんだよ。

どうして、大天使、天使、アセンデッドマスター、ハイヤーセルフなどと直接つながろうとしないの? 


暗い話をして同情を買おうというヴァンパイア体質の人がいる。

ヴァンパイア体質の人というのは、エネルギー、アテンション(注意、関心)、愛情、時間・体力・資金などを「吸い込む」傾向が固定化してしまった人をいう。

そういう人は、とりあえず見守るしかない。

というのも、ヴァンパイア体質の人は、ネガティブな波動を強固に握りしめているため、私たちのレベルでは、どうにもできないからだ。

「溺れている人を助けようとして、自分が溺れてしまう」という失敗をしないことが大事だと思う。

ヴァンパイア体質の人と関係するだけで、共振が起こってしまい、自分まで下がってしまう。

これは差別する「分離の発想」からそういうことをゆっているのではなく、音叉を弦に近づけると共振するということをゆっているだけだ。

そのヴァンパイア体質の人は、ネガティビティの究極のかたちを経験したいのだから、その経験が終わったら、そのヴァンパイア体質の人のハイヤーセルフが、何らかの道筋を用意するので、それを信頼して、見守るしかない。


「悲しみを癒やす」とは、「当人が悲しみの波動を手放す決心をして、『統合』を実際におこなうこと」によって達成されると思う。

「悲しみを癒やす」という思いを抱いて、話を聞いて共感してあげるのは、「悲しみを2倍にする愚かな行為」である。

ネガティブな共振の発生については、厳重に監視して、注意深く避ける必要がある。


ヴァンパイア体質の人は、「話を聞いて欲しい」とゆって近寄ってくるけれども、それがイヤだったら、縁を切ってもいい。

そして「大天使ミカエルよ、エーテルコードカットをお願いします」とお願いして、エネルギー交換を回避するのがよい。

ヴァンパイア体質の人は、「話を聞いてもらって心が軽くなった」とかゆうけれども、「あなたのエネルギーを奪い取ってうれしい」とゆっているのである。

ヴァンパイア体質の人は、ポジティブなエネルギーを消費するだけで、自分からポジティブなエネルギーを生む力をもっていない。 だから奪い取るのだ。

そして、ヴァンパイア体質の人がおこなっていることは、「ネガティブな波動の共振を他者に及ぼすこと」と「他者のポジティブなエネルギーを奪い取って自分の元気のために使うこと」である。

ヴァンパイア体質の人は、エネルギー泥棒だと思うし、時間泥棒だとも思う。

現実にそういうことが起こるので、ヴァンパイア体質の人との縁切りが必要だと思ったら、バッサリと断行してください。

そして「大天使ミカエルよ、エーテルコードカットをお願いします」とお願いして、エネルギー交換を回避してください。

これはむやみに差別意識をあおるような情報ではなく、実際に気をつけなければならない、注意喚起情報です。

その根底にある理論は、悲しみの波動は、「かぎりなき資源」であり、共振というかたちで、かぎりなく増殖することができる。 そういう理論です。

ヒエラルキー社会(ピラミッドがあって頂点がある社会)は終了している|無極性クラスターの社会へ

この3次元世界の「リーダー」は、支配者であったと思う。

徳治政治というものもあったけれども、江戸時代が黒船によって無理やり終わらされたように、徳治政治は「帝国主義」によって破壊された。

そのように、これまでは、「力の強い者」「武力の強い者」が勝つ社会だった。

そして、「ピラミッドの頂点を目指して頑張る」ことが「成功」だという「洗脳」「刷り込み」を、私たちは受けてきた。

それがバカバカしいという人たちは、家に引きこもって、ニートという貴族になった。

社会の底辺と思われている「ニート」「無職・無収入」という階層は、じつは貴族なのである。

そしてもちろん、「不労所得で生活する本当の貴族」がいる。

じつは、中途半端に働き、中途半端に収入があるほうが、税金や保険料が高くなり、経済的には不利なのである。

人生で最も豊かなことは、時間に余裕があること、ヒマであることだ。 「ニート」「無職・無収入」という階層が貴族であるという確たる根拠が、ここにある。

3次元世界では、長生きして100年という限定された期間だけが与えられている。

そして、健康に不安がなく、苦しみが少ないのは、せいぜい50歳ぐらいまでである。

50歳以降は、病気や身体の衰えに苦しむ時間帯を迎える。

学校という縛りから抜け出せる18歳から22歳以降、かつ、50歳程度までの人生こそが、制約の少ない「最もラクな部分」である。

してみると、人生は28年間しかない。

この28年間を、労働などという、人生の無駄に費やすのはバカバカしい。

好きなことやって生きようぜ。


私たちは「ピラミッドがあって頂点がある社会」という幻想を刷り込まれている。

ピラミッドの「できるだけ上」を目指すことが幸福につながると勘違いさせられている。

「できるだけ上」を目指すために、必要のない勉強、あるいは、必要のない労働を強いられている。

ってか、騙されてるオマイらが悪いんだよ。

見抜けよ、相手の底意を。


「ピラミッドがあって頂点がある社会」というのは、男性姓・男性原理が支配的であった、これまでの時代の価値観だ。

すでに、女性姓・女性原理が支配的になる時代へと移行しているらしい。

この時代のグループというものは、極をもたない、クラスター型のグループになると私は思っている。

クラスター型のグループというのは、リーダーぶる人、仕切りたがり屋がいないグループである。

そもそも、私はリーダーぶる人、仕切りたがり屋が大嫌いで、それで家族の中で浮いていた。

これからは、生きやすくなりそうだ。

極をもたない、クラスター型のグループ。

無極性クラスター・グループ(nonpolar cluster group)。

「極」というのは、リーダーというか、センターといった感じの中心部のこと。

どうして無極なのかというと、それぞれの構成メンバーのハイヤーセルフ〔higher self〕が「極」であり、「極」はみなもとだから、そのグループそのものは「極」をもたないのである。

無極性クラスター〔nonpolar cluster〕。

クラスター(ブドウのふさのような集団)。

「わがまま」「身勝手」の定義

一定の範囲内において、私たちには選択の自由が与えられている。

選択の自由を行使するとき、それが「ひとさまの不幸の上に成り立つ幸福追求行為である」場合、これを「わがまま」「身勝手」と定義する。

「自分の好きなようにすること」のぜんぶが「わがまま」「身勝手」なのではない。

ただし注意が必要なのは、「不幸がることによって、あなたを支配しようとしている人」の存在である。

自分が経験する現実は、自分の周波数が投影されたものなので、結局、「不幸がることによって、あなたを支配しようとしている人」=「あなたを眠りの世界に縛り付けようとしている人」は、自分が登場させているのである。

自分に責任がある。

つまり、自分の中に「眠り続けることを肯定する要素」が残っているので、「不幸がることによって、あなたを支配しようとしている人」が登場してしまうのだ。

これはトラップであり、このトラップから抜け出すために、いいかえれば、自分軸を取り戻すために、「わがまま」「身勝手」のススメをするスピリチュアリストもいる。

このトラップに引っかからずに、かつ、「わがまま」「身勝手」を発揮するTPOを間違えることによって「ひとさまの不幸の上に成り立つ幸福追求行為」におちいることなしに、「正常運転」できるようにする必要がある。

これは、難しい運転だと思う。

外側に踊らされている状況から脱却するためには、「わがまま」「身勝手」のススメが効果的だと思う。 しかし、「わがまま」「身勝手」のススメを拡大解釈して、「ひとさまの不幸の上に成り立つ幸福追求行為」におちいる人も多いことだろうと思う。

循環の定理

問題点を発見するとき、「『そこに循環がない』ことが、不調和を生む」という一点だけを見てチェックしていくと発見が早い。

なかなか引退しない、かつての名プレイヤーについて思うこと。

「場を私物化する」のは、他者のチャンスを奪う行為である。

他者のチャンスを奪う行為は、「ひとさまの不幸の上に成り立つ幸福追求行為」であるので、それは「わがまま」「身勝手」だといえる。

ブランコをずっと占有する、「わがままな子供」という心の病気が、大人になっても治らないのだと思う。


公(おおやけ)は常に循環している。

「場を私物化し、いつまでも定点にとどまる行為」は、循環の定理に反する。

独裁者とか、政治家の世襲制とかは、「場を私物化」している典型例だと思う。

かつての名プレイヤーが現役を続ける「意義」あるいは「自己満足」よりも、他者の「機会損失」「つぶされたチャンス」という「不幸」のほうが、ウエイトとして重たい場合、 かつての名プレイヤーは、静かに立ち去るのが真善美であろうと私は感じる。

周りから「もうお腹いっぱい」とゆわれる前に、サクッとやめたら? 

かつての名プレイヤーが見落としている点。

それは、循環がないことにより、とどこおりがしょうじ、とどこおりが不具合を生むという点である。

名プレイヤーよ、あなたが循環のスピードを勝手に変えてしまっているのだよ。 名プレイヤーよ、あなたが周期を乱しているのだよ。

天の川銀河は26000年周期で回転し、地球は太陽の周りを1年間で回転する。

そういった循環は、無条件に適用され、誰も、それにあらがうことはできない。

かつての名プレイヤーにだけ、あらがう特権を認めることは、循環のペースを乱すことに通じる。

循環のペースを乱した分だけ、ゼンマイは巻かれて、最終的には、ゼンマイがはじけると思う。 ここでもエネルギーは保存される。

無理をかけたら、その無理によって蓄積されたエネルギーは、どこかで解放されるハズだと思う。

淘汰される、かつての名プレイヤーは不幸なのだろうか? 

いや、不幸ではない。 すでに彼は十分に得ている。

十分に得た者が、いつまでも水場を占拠することによって、喉が渇き苦しんでいる順番待ちの人々を待たせ続けることになる。 そういうことは、宇宙の法則として、許されないように思う。

その「許されなさ」は、天体の自転・公転運動が「有無を言わせず」であるのと同様である。

だから、そういった循環、あるいは、周期に対して、私たちは、従順であるべきだと思う。

すでに十分に得ている者は、すぐに、ここを立ち去りなさい。

それは、良識の範囲にある基本的な約束事だと思う。

去るべきときを知り、実際に去りなさい。

それが循環の定理を実践するということだと思う。

循環の定理は、厳格なルールだと思う。

対極の定理

スターやカリスマ・リーダーは、「極」であり、「極」が生まれると、そのペアとして、必ず「対極」が生まれるから、スター、カリスマ・リーダーは必要ない。

ヒーラー(癒やしを施す者)が登場すると、ヒーリー(癒やしを施される者)が登場する。 それは、磁石にS極とN極が自動的に生じるのと同じである。

棒磁石のS極に近い側を切り落としても、その「棒磁石の断片」の中で、さらにS極とN極がしょうじてしまう。

それと同様に、ヒーラーとか、スピリチュアル・ティーチャーが生まれると、それらに依存する人たちを生んでしまう。

「極」が生まれると、そのペアとして、必ず「対極」が生まれるように、このマトリックスが仕組んであるらしい。

このトラップを回避するためには、「S極とN極」や「ヒーラーとヒーリー」などなどは、両方とも私たちの中に「すでにある」ということを見落とさないことだと思う。

それはすでに、自分の手の中にある。

だから、スピリチュアル・ティーチャーとして存在が許されるのは、「あなたはすでに持っている」ということを指摘してくれる人だけであろう。


スピリチュアル・ティーチャーには、クライアントをできるだけ遠回りをさせて、段階を設けて、クライアントを長らく引きとどめておきたいという人が多い。

それは「クライアントを自分に依存させて、自分の無価値感を埋め合わせようとするスピリチュアル・ティーチャー」である。

「生活のため」「お金のため」にクライアントを自分に依存させるように仕向けざるを得ないという側面もあるだろうし。

とにかく、その状態は共依存だから、不健全な結果を生むだけであろうと思う。

共依存というのは、エネルギー、アテンション(注意、関心)、愛情、時間・体力・資金などを「吸い込む」という「始まり」「動機」から起こっている系(システム)だと思う。

それは「ネガティブな系」「逆位相の系」だと思う。

「寂しい」「愛情が欲しい」「無価値感を解消したい」などのネガティブというか、吸い込むエネルギー状態(負圧をもっている場)のお互いが、「奪い合う関係性」を続けているのが共依存。

「奪い合う関係性」も、結果としては「与え合う(奪い取られ合う)関係性」になっているので、関係性は存続しやすい。

しかし、共依存の当事者どうしの根底にあるエネルギーが「吸い込むエネルギー」なので、共依存の関係を続けることが、最終的には、苦しみになってくる。

共依存の当事者が、「共依存を生む思考パターン」「外側に求める思考パターン」「相手から奪い取る思考パターン」を改善しない場合、何度、恋愛・結婚を経験しても、誰と友人になっても、破綻して孤独に戻ると思う。

「吸い込む」という「始まり」「動機」から起こっている系(システム)は、位相が逆なので、ネガティブな結果になると思う。

具体的にいえば、海外旅行をして、泥棒・スリ・恐喝などが横行する国や地域があるとする。 そういう泥棒社会が、「位相が逆の世界」「ネガティブな世界」、いいかえれば、「奪い合いの世界」なのだと思う。

共依存はエネルギー、アテンション(注意、関心)、愛情、時間・体力・資金などを奪い合う、「奪い合いの世界」そのものだ。

「奪い合いの世界」が楽しければ、どうぞ。


「彼ら」(闇の勢力)は、私たちを「無力・無能・無気力」であると錯覚させようとしている。

それは私たちを「単能」だ(1つのことしかできない)と思わせるところから始まっている。

結局「彼ら」は、私たちが「自分は○○しかできない人間だ」という幻影を信じ込ませようとしてきたらしい。

それは結局、「身分や立場を固定したい」=「支配構造」を維持し続けたいということだろうと思う。

つまり「単能」というのは、野球でいうと、チームAが打撃専門で、チームBが守備専門といったような、「循環しないこと」「交代しないこと」を意味する。

「いつも支配する側」および「いつも支配される側」といったように、「支配・被支配」「攻守」などが交代しない、循環しないことを「単能」と、ここではゆっているのだ。


独裁政権が続いているのも、非循環の1つである。

あるスポーツ選手が、なかなか引退しないせいで、後進がレギュラーメンバーに入るチャンスがつぶされている。 これも非循環の1つである。

宇宙は公(おおやけ)の場であり、公の場は、いつも循環している。 回転している。 回転するものだからこそ、それは特定の周期をもっており、周期が波動を生んでいる。

回転は循環の1つのかたちだ。

回転運動を含めた循環運動を止めたり、遅くさせたりすることは、たいへんな負担を宇宙に与えると思う。

ブランコは順番に乗ること。 長時間、独占しないこと。

ホールケーキは、人数を数えて、等分した結果の1人分だけをいただき、あとは他者のために残しておくこと。 けっして1人でぜんぶ食うなよ、いやしんぼうめ。

「場を私物化する」というのは、ホールケーキを1人で食っちまうようなことをいう。 分け与えろよ。 分かち合えよ。

これは安っぽい倫理観からゆっていることではなく、宇宙は循環し、循環すると平準化されるようにできているから、その流れに逆らうと、宇宙に負担をかけるから、やめとけとゆっているだけだ。

循環によって平準化が起こる。 これの例として「血液の循環によって、体温が局所的に高まることを防いでいる」というのがある。 体温についても、ホメオスターシスが保たれている。

ホメオスターシス - Google 検索

地球が自転するのは、「地球の各部分に対して、太陽光線を均等に当てるため」「暑すぎる地域」「寒すぎる地域」をつくらないためだと思う。

地球に水が多いのは、温度を「タンパク質主体の身体」の範囲にとどめるためだろう。 水という媒体は、ホメオスターシスをもたらす媒体だと思う。

「局所的に極端な性質をもつことを、自然は嫌う」
「自然は自動的に平準化されるように設計されている」
「宇宙全体にホメオスターシスのような原理が働いている」
「その原理は回転運動を含めた循環運動から発生している原理だろう。回転は循環の1つのかたちだ」

宇宙は「局所的に高すぎる・低すぎる」という状態を平準化する(宇宙のホメオスターシス)。 それは宇宙が循環的な性質をもつからだろう。 循環の背景には、回転があるらしい。

宇宙は回転して循環して「全体をならす」性質があるから、とんがったところ、へこんだところが削られるようにできている。 とんがったところ、へこんだところを、わざわざつくるようなことは、しないほうが、自然に逆らわない生き方かもしれない。

特定の人・特定の事象だけに、ぜんぶの責任や原因をおっかぶせないことが大事だろう。 それは、自然が「局所的に高すぎる・低すぎる」という状態を平準化する(宇宙のホメオスターシスの)性質をもつからだ。

結局、「自然の性質を観察し、感じ取って、自然の系(システム)に逆らわないこと」が「真実を見失わない最もシンプルな方法」の1つだろうと思う。

「私はあなた」「あなたは私」を敷衍(ふえん)していくと、特定の人・特定の事象にだけ裁きを加えることそのものが、真実から目をそらす行いなのだと思う。

川の流れ/流域の存在たち全体に責任があるのに、河口付近だけに裁きを加えることは「全体を見ていない結論」だと思う。

イジメ自殺事案において、逮捕され、懲役刑を受ける人を特定する基準はどこにあるのか? 

イジメ自殺事案において、クラスの全員が均等に特定の人物をのけ者にしていた場合、クラスの全員が無罪放免みたいになる。

これはイジメ・グループがクラスの全員という大規模グループだった場合、「団体割引で罪が減免される」ということなのか?  連帯責任は無責任(Everybody’s business is nobody’s business.)。

そういうことだったら、イジメ・グループを大規模化させれば、特定の人物をイジメて死に至らしめても、誰も罪に問われないで済ませられるということになる。

そもそも、誰かを罪に問うことが、正しいことなのか?  イジメ自殺事案において、逮捕され、懲役刑を受ける人を特定する意味はあるのか? 

起こっている事象は、とてもよく似ているのに、ある場合には、誰かを罪に問い、別の場合には、誰も罪に問われない。 そこから、判断の基準が「おかしい」とわかる。 法律がおかしいとわかる。 裁判所がおかしいとわかる。

「イジメ圧力」というエネルギーがあったと仮定して、「イジメ圧力」が1000ijmで、1人の人間が自殺する閾値を超えるとする。 クラスの30名が33.33ijmずつ分担してイジメたら、誰も逮捕されない。

イジメ・グループのリーダー格が150ijmを発揮し、イジメ・グループの他のメンバー、あるいは、見て見ぬふりをしたクラスメイトたちが、「イジメ圧力」の総量が1000ijmになるように、それぞれの「イジメ圧力」を分担したとする。

リーダー格が150ijmを発揮した場合には彼/彼女が逮捕者となり、みんなが均等に「イジメ圧力」を分担して、目立たないようにしたら、逮捕者が出ないとしたら、ヘンだと思う。


犯罪などの「あるネガティブな事象」が起こった場合、それは「工程の流れ全体が生んだ結果」である。

そこに法律や捜査関係者の主観で「閾値」を勝手に設け、特定の誰かをスケープゴートに仕立て上げ、その人を「閾値」が超えたと判定された場合にだけ、テキトウに起訴状をつくっているんだよ。

法務省系統の人たちって、「あなたにそんな権限がありますか?」という「人を裁く」という重大なことを平気でやっていると思う。

それが、ほんとうにおかしいと思う。


富を独占しようとか、知識・情報を独占しようとか、そうゆうことが、この世の不幸を生んできた。

著作権や特許権が、文化・文明の発展を邪魔しているんだよ。

著作権や特許権というのは、知的財産の世界で「場を私物化する」ことを認める考え方だ。 これは、ある側面では、バカバカしい、次元の低い考え方だと私は思っている。

私物化こそ、分離の考え方の典型例だろうと思う。


宇宙には、「かぎりある資源」と「かぎりなき資源」がある。

例えば、水を分かち合うとき、与えた人の水は減る。 このとき、水は「かぎりある資源」と捉える。

例えば、炎を分かち合っても、与えた人の炎は減ることがない。 このとき、炎は「かぎりなき資源」と捉える。

「かぎりある資源」に限定していえば、分け与える/分かち合うことが自然である。

これは「循環の定理」から派生している「平準化の定理」というものに基づく。

熱エネルギーが拡散するのは、ある意味の「循環」があるからだと思う。

熱いコーヒーを淹れたとしても、放っておけば、コーヒーは冷めてしまう。 「自然に冷めてしまう」という現象が、「熱エネルギーが拡散するありさま」そのものである。

「自然に冷めてしまう」とは、「自然に平準化されてゆく運命にある」ということだ。

富というエネルギーも、「自然に平準化されてゆく運命にある」と私は信じている。 それは結局、富は分け与える/分かち合うのが自然だということである。

また逆に、負担金というマイナス要素も、分け与える/分かち合うのが自然だということである。 ただし、これは「かぎりある資源」のことであり、しかも、「分担可能な場合だけ」である。

波動の共振ということについていえば、不幸な人に同情すると、不幸が2倍になるだけなので、同情はしないことだ。

あなたのお家が火事になったとしても、友達の家まで火事にする必要はない。 不幸が2倍になるだけである。

結局、「かぎりある資源」でも「分担できないもの」については、分け与える/分かち合う必要はない。 そして「かぎりなき資源」でも、望まなければ、分け与える/分かち合う必要はない。

空冷システムにおいて、ファンによって風を当てるのは「循環」を生むため。 平準化を早めるためには、「循環」を強化するために、ファンで風を当てたりする。

「循環」の結果として、熱エネルギーの平準化が起こる。


一部の大金持ちだけが富を独占するというのは、この「平準化の定理」に反しているわけである。

分け与えろよ。 分かち合えよ。 けっして1人でぜんぶ食うなよ、いやしんぼうめ。

例えば、ある事件があったとき、特定の人物をスケープゴートにして、その人を「自殺に見せかけた他殺」によって処分することが、官僚の世界では数多くおこなわれてきた。

近畿財務局の自殺職員の父「上司の指示が負担に」

平たくいえば、「1人だけを悪者にしてぜんぶなすりつけて『なかったこと』にする」という悪習が、官僚の世界では続いている。

ここから学び取るべきことは、特定の人物をスケープゴートにすることは、「平準化の定理」に反するということだ。

マイナス要素(ネガティブ要素)は、分担するべきである(「平準化の定理」)。

1人の人間が死ぬより、5人が懲戒免職になったほうがよい。

1人の人間が満腹になるために、3人が飢え死にするより、4人で食料を分け合って、全員で何とか生き延びたほうがいい。


なかなか引退しない、かつての名プレイヤーは、「1人の人間が満腹になるために、3人が飢え死にさせる」ような行為をおこなってきたのだと思う。 独裁者も、独占企業も、まったく同じ行為をおこなってきた。

ひとさまの不幸の上に成り立つ幸福(わがまま/身勝手な幸福追求の結末)は、やがて解消される。 解消されるだけでなく、それには必ず反作用があると思う。

いずれにしても、突出したスター、カリスマ・リーダーは、「極」であり、そのペアとして「対極」(カリスマ・リーダーに心酔する愚かな大衆)を生むものだから、そもそも「出てきちゃマズいもの」だったのだと思う。

スター、カリスマ・リーダー、教祖をつくるのは、愚かな大衆だ。

その愚かな大衆に乗せられてスター気取り、カリスマ・リーダー気取り、教祖気取りになるというのも、未熟な証拠である。

どこが未熟なのかというと、「私たちが相互に密接な関係をもっており、お互いに影響し合っている」という状況がわからないために、かなり無茶なことをしているからである。

「迷惑をかけていることに気づかない未熟さ」というものが、そこにはある。

私たち宇宙のメンバーは、互いに密接に関係しており、誰かが何かをおこなうと、直接的にまたは間接的に、何らかの影響を受けるようになっている。

バタフライ効果 - Google 検索

誰かの言動というものは、バタフライ効果のようにして、広く世界に、広く宇宙に、影響してしまうのである。

スター、カリスマ・リーダー、教祖になりたがる人は、自分が「極」をつくっており、そのペアとしての「対極」(カリスマ・リーダーに心酔する愚かな大衆)を生む土壌をつくってしまっていることに気づいていない。

「スター、カリスマ・リーダー、教祖」も、「それらに心酔する愚かな大衆」も、「お互いに外側に求めるタイプどうし」であり、これは共依存に含まれると思う。

共依存の関係性は、「その関係性に巻き込まれているそれぞれの魂の中で、『ハイヤーセルフとの導通不良』を生む原因になる」と思う。 そうだとしたら、進化の停滞をしょうじさせると思う。

つまり共依存の関係性の中にあると、依存し合うお互いが「目覚めない」という結果を招く。

共依存の関係性の中にあるペア、あるいは、集団は、眠り続けることになる。

そうやって眠りのグループを形成することになると思う。

「スター、カリスマ・リーダー、教祖」も、「それらの信奉者・心酔者」も、そうゆうことやってると成長が止まるから、ふつうの状態に戻って冷静なったほうがいい。

その「共依存コミュニティ」が集団で成長を止めるから、これは宇宙にとって、かなり迷惑のかかる行為ではないかと私は個人的に思っている。

ここでいう「未熟」とは、自分の安易な言動が、他者や宇宙への悪影響を生む可能性をもつということに対しての「健全な恐れをもっていない」というありさまをいう。

未熟なドライバーが、路上で好き勝手な運転をして、事故を誘発する。 そういう場合の「未熟」が、ここでいう「未熟」なのだと思う。

共依存の関係性は、悪しき循環である。 ともに落ちていくスパイラルを生む。

共依存の関係性は、いつか崩壊するし、気づいた人から、離脱してゆく必要があると思う。

問題となる行動の考え方

特定の人物・事象だけに原因・責任をおっかぶせない

ひとつづきの連鎖反応は、すべてワンセットである。

特定の「部分」だけに「原因・責任」をおっかぶせることは、「平準化の定理」に反する。

「突出した幸福」や「突出した不幸」というピーク成分を、できるだけならして、「極端な幸福者(独占者・大富豪)」「極端な不幸者(貧民)」を、なくしていく。

これが、「あなたもよく」「わたしもよく」「みんなもよく」という調和の取れた結末を生むのだろうと思う。

闇の勢力は、これまで、コントラストを強めることによって、私たちの経験が「極端」になることに協力してきたと思う。

つまり闇の勢力は、ある意味で「私たちの学びが効率的に進むように」という考えから、「悪の度合い」「闇の度合い」を強めてきたのだと思う。

私たちの地球学校での学びは、「光を深く知るために、あえて極端な闇を経験する」という「コントラストがもたらす効果」を利用したものだったのだと感じている。

闇が深ければ深いほど、光の尊さを痛感する。 このことを学ぶために、この地球での転生を繰り返してきたような感じがする。

「貧富の格差を意図的につくる政府」や「誰か1人をスケープゴートに仕立て上げて殺害する、あるいは、グループから排除する」といった闇の精神に基づく「設定」は、 「地球学校を運営するための特殊モード」だったのだと思う。

そこでは、「あなたもよく」「わたしもよく」「みんなもよく」という調和の取れた結末は、嫌われたのだった。

しかし、三次元地球という学校は、もはや廃校である。

あとは、学校で身に付いた「ドロ」「垢」「クソ」などを、こそげ落として、きれいになって、卒業するだけである。

だから今後は、とりわけ、「突出して不幸な人」をつくらない仕組みにしないといけない。

それが、「特定の人物・事象だけに原因・責任をおっかぶせない」という法則である。

「ひとさまの不幸の上に成り立つ幸福追求行為」=「わがまま」「身勝手」を即座に停止させる

「ひとさまの不幸の上に成り立つ幸福追求行為」それ自体が、迷惑行為であるということ。

例えば、隣家の庭でバーベキューをしている。 炭火の煙がぜんぶ来るし、夜遅くまで大騒ぎする。

こういった場合、「隣家の幸福追求」が「近所の迷惑(不幸)」に直結している。

そういう意味で、住宅街でのバーベキューも「ひとさまの不幸の上に成り立つ幸福追求行為」につながりかねない。


例えば、世界を支配したいというロスチャイルドの野望というものは、それが「自由意志に基づく幸福追求行為」であったと仮定しても、それは宇宙として許されないと思う。

なぜかというと、「ロスチャイルドの幸福追求行為」と「支配される側の幸福追求行為」とが、ぶつかり合うから。

いいかえれば、「ロスチャイルドの幸福追求行為」は、「ひとさまの不幸の上に成り立つ幸福追求行為」なんだよ。


その背景にある考え方は、こうである。

まず、話題を「かぎりある資源」に限定する。

「かぎりある資源」にかんしては、「平準化の定理」に基づいて、「極端な富裕層(幸福な人)」「極端な貧困層(不幸な人)」を極力減らすというのがある。 ピーク成分をならして、各参加者で分担するわけである。

富(余剰)も分かち合い、借金(欠乏)も分かち合うのである。

それは、「富(余剰)に代表されるプラス要素(ポジティブ要素)」「借金(欠乏)に代表されるマイナス要素(ネガティブ要素)」の偏在(へんざい:かたよって存在すること)を、できるかぎり避けるということである。 それが「平準化の定理」である。


そのうえで、「借金(欠乏)に代表されるマイナス要素(ネガティブ要素)」の総量をできるだけ減らすというのがあると思う。

「一将功成りて万骨枯る」というのがある。

一将功成りて万骨枯る - Google 検索

結局、カリスマ・リーダーの野望を達成するために、幾百万のつわものども(兵士)が命を落としていった。

カリスマ・リーダーも、幾百万のつわものどもも、ともにバカであり、クソだ。

両者は共依存の関係にあり、その経験は「こういうことをしてはならぬ」という学びにはなったけれども、それ以上のものではなかった。

「一将功成りて万骨枯る」という状況に、私は低評価をつける。 なぜかというと、「一将功成りて万骨枯る」という状況は、「借金(欠乏)に代表されるマイナス要素(ネガティブ要素)」の総量をできるだけ減らすという定理に反しているからである。

多くの人が死に、そこには多くの悲しみが生まれた。 宇宙に善悪はないけれども、死や悲しみは、「借金(欠乏)に代表されるマイナス要素(ネガティブ要素)」だと思う。

もちろん、「不幸を経験する学校としての地球」であれば、そういう無益な戦いも許されたのだろうけれども、進化した天体では、無益な戦いは許されないと思う。

「マイナス要素(ネガティブ要素)」の総量をできるだけ減らすという定理を「コミュニティ全体の不幸の最小化定理」と呼ぶことにする。


ジャイアンのリサイタルでは、気持ちがいいのはジャイアンだけで、のび太もスネ夫もしずかちゃんもドラえもんも、みんな不幸を感じている。

ジャイアンのリサイタルは、「ひとさまの不幸の上に成り立つ幸福追求行為」だから、それはジャイアンの「わがまま」「身勝手」だといえる。

そして、ジャイアンがリサイタルによって得る幸福と、のび太、スネ夫、しずかちゃん、ドラえもんたちが感じている不幸の総量とを比べる。

このとき、不幸の総量が多いという判定になれば、ジャイアンがリサイタルにのび太、スネ夫、しずかちゃん、ドラえもんたちを強制参加させる行為は、「コミュニティ全体の不幸の総量を最小化する定理」に基づき、「違法」である。

同様にして、「彼ら」(闇の勢力)が私たちを金銭奴隷にして支配している状態も、「コミュニティ全体の不幸の総量を最小化する定理」に基づき、「違法」である。

不幸の総量を測定して、それが急激に/極端に増えるようだったら、それは「違法」というルールにする必要がある。


「宇宙に善悪はない」「宇宙は自由意志が原則である」

スピリチュアリストのあいだでは、「宇宙に善悪はない」ということになっている。

「宇宙に善悪はない」とか、「宇宙は自由意志が原則である」とか、やはり誤解されやすい表現であり、スピリチュアルな、後出しジャンケンのように、重要な前提条件を後出ししてしまうことがあるように思う。

けれども、それも一種の方便であり、実際には、周波数の高い天体では、ルールはかなり厳しいと思う。

「民度」が高い天体では、「良識」「当たり前」のレベルが、相当高いのだと思う。

「他者がつくったルールにとらわれて自分軸を見失った状態」を解消するときに「わがまま」「身勝手」が推奨されることがあるけれども、 「民度」が高い天体で、「わがまま」「身勝手」の意味を誤解した、他者に迷惑をかけるような「わがまま」「身勝手」を続けていたら、治療院に送られるか、追放されるかだと思う。

「外側に意識を向ける」という用語が語外を生みやすい。

「あなたもよく」「わたしもよく」「みんなもよく」という調和をも考えることは、「意識を外側に向けている」からこそ可能なことである。

「外側に意識を向ける」という用語は、「調和を意識した配慮」をもバッサリと切り捨てて「悪者」にしてしまうような、粗雑さを含んでいるように思う。

自分軸に立ちながらも、 は、「外側に意識を向ける」 ことになるのだろうか? 

スピリチュアリストの方便は、「部分」だけにフォーカスして、そこにだけ言及し、「全体の仕組みをちゃんと語っていない」ことがあるので、注意が必要だと思う。

循環がない場合、循環を止めている要素を取り除く必要がある

独裁者の悪い点は、「大衆からの意見を受け入れない」=「循環を停止している」という点である。

つまり「情報・指令における循環がない」=「情報・指令の流れがインタラクティブでない」という段階で、すでに「終わっている」のである。

「相手を一方的に従わせる行為」「相手を支配する行為」が、「情報・指令における循環がない」=「情報・指令の流れがインタラクティブでない」というありさまを呈する典型例である。

スター、カリスマ・リーダー、教祖をつくるのは、愚かな大衆である。

逆にいえば、賢い大衆は、スター、カリスマ・リーダー、教祖が出現しそうになったら、徹底的に無視して干すものだよ。

「彼ら」(闇の勢力)は私たちに、スター、カリスマ・リーダー、教祖になることを「成功」だと思い込ませたいようだ。

実際、多くの人が、スター、カリスマ・リーダー、教祖になることを「成功」だと思い込まされて、その「成功」へ向けて努力する世界に巻き込まれてきた。

でもその「成功」は、「最終的な正解」はないんだよ。

「彼ら」(闇の勢力)は、例えば、恋愛や結婚といったものを、「成功」だと印象づけているよね? 

でもそこには、「最終的な正解」はないんだよ。

「自分のハイヤーセルフ〔higher self〕との導通回復」=「アセンション」こそが「最終的な正解」なのだけれども、「彼ら」(闇の勢力)は、私たちに「最終的な正解」を知られたくないんだよ。

「アセンション」を達成した後には、自分が理想とする現実を創造することができるようになる。

豊かさ、恋愛・結婚、健康、能力開発、自己表現など、すべての「自分の望み」が「アセンション」に含まれている。

「アセンション」を目指していけば、すべての望みが叶うと考えてよい。

そして、望みだと思ってきたことは、望みの状態になることによって、ある特定の周波数を経験することにすぎなかった。 そのことに気づくようになっているらしい。

豊かさ、恋愛・結婚、健康、能力開発、自己表現などは、直接の目的ではないようだ。

それらを通じて経験する、ある特定の周波数を経験するために、豊かさ、恋愛・結婚、健康、能力開発、自己表現などといった「間接的な目標」を設定しているだけ。 それが種明かしであるらしい。

 
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