切腹せっぷく〔腹切り〕は自分自身を生贄いけにえにすること

清らかな存在は、他者が自分のために犠牲になることを恐れます。 それは、[その反作用〔むくい〕が、必ず自分に返ってくる]という宇宙の仕組みを知っているからです。

いいかえれば、他者が自分のために犠牲になることを恐れない存在は、[闇][魔]だけです。

[闇][魔]は、何らかの操作を行なうことによって、悪事をなしても、その反作用が返ってこない仕組みを作り上げている[陽]〔ひろがる〕です。 そういう魂は、平気でむごたらしいことをします。

つまり、生贄いけにえを喜んで受け取る存在は、[闇][魔]だけです。

つまり、生贄いけにえを要求する存在は、[闇][魔]だけです。


また逆に、自分自身を生贄いけにえにする行為は、[闇][魔]との契約をみずから結びにいくような、きわめて知恵の浅い行為です。

例えば、ゼロ戦で敵艦に突っ込んでいき、死んでいった人たちは、そのままでは、浮遊霊になるのだと思いますよ。 英霊でも何でもありません。 彼らは浮遊霊になったのです。

浮遊霊になるのは、執着が残っているからですよ、きっと。 つまり本音とはかけ離れた死に方をした。 思い残しがある。 したがって、この時空間にしがみつくわけです。 したがって、ちゃんとした死後の世界にたどり着かないわけです。

理不尽な理由から、自己を犠牲にして死んでいった人たちを称えるには、それなりの底意そこい下心したごころがあるわけです。

私たちは大人になる必要があります。 たとえ大天使ミカエルといえども、一個のE・Tにすぎず、それなりの底意そこい下心したごころをもって行動しています。

私たちが大天使ミカエルに依存心を抱くのは、私たちが、大天使ミカエルといえども一個のE・Tにすぎない、という実像を見失って、一個のE・Tを神格化してしまっているからです。

日本人のように、底意そこい下心したごころを潜在意識の中に押し隠して、実際には他者にいいところを見せようと思ったりなんかして、自己を犠牲にするようなことでは、潜在意識に怒りが蓄積されていき、それがその人の【周波数】を下げて[闇][魔]とつながりやすくなってしまうんですよ。

それなりの底意そこい下心したごころをもって行動するのが自然なんですよ。

それは、ごく普通のことであり、けがれでも何でもありません。

そこにかんして、ウソをついたり誤魔化したりせず、実務的な問題として、冷静に見ていく必要があるわけです。

大天使ミカエルといえども、一個のE・Tにすぎない。 依存しても、彼自身にメリットがなければ、迷惑がられるだけ。

結局、Win-Winになるように、構造をつくってから、依頼するものは依頼するのです。


[闇][魔]のことです。 欲深いのです。

戦争でイヤイヤ死んでいった若者たちを英霊としてほめたたえるのは、戦争をしたいからです。

[闇][魔]が戦争をしたがるのは、たくさんの魂に苦しみ・悲しみ・痛み・怒りを抱かせることを通じて、それらのエネルギーを吸い上げる、という実利的な目的があるからです。

私たちは、[闇][魔]にせよ、[光][天使]にせよ、[何のメリットがあって、そういうことをするのか]を冷静に観察して見抜いていく必要があるわけです。

そして、[光][天使]の存在たちにお願いをする場合でも、Win-Winになるように、構造をつくってから、依頼するものは依頼するのです。

どのような対象をも崇拝すうはいしてはなりません。

崇拝は依存です。


武士道を貫いて切腹した人も、浮遊霊になったことでしょう。

過去世のいろいろな時点に、私たちの魂は、置き去りにされてきたようです。

魂が不完全な状態では、私たちは完全なパワーを発揮することができません。

近頃では、すべての人々の過去世のいろいろな時点に置き去りにされてきた私たちの魂の一部が、解放されているようです。

要は、自分が[私は自分のすべての過去世における魂を、いまここで統合します]と宇宙に宣言し、強く思念すれば、魂は統合できる状態になっているようです。

結局、やせ我慢をして、不本意な死に方をしても、浮遊霊になったり、魂のエネルギーを[闇][魔]に吸い取られたりして、何らいいことはないのです。

したがって、自己犠牲をやめなさい、ということです。

自己犠牲を美化するような、武士道というものは、日本にはありません。

武士道というものは、新渡戸稲造が考え出した架空の概念です。


私たちは部活動などで、先輩・後輩の概念を叩き込まれますけれども、それは儒教思想による洗脳ですから、その洗脳を自分で解いてください。

[人間の尊厳を重んずること]と[先達の言うことを、ウソでも真に受け、鵜呑みにする]ことは、まったく別です。

新渡戸稲造をむやみにリスペクトするのは問題があります。

新渡戸稲造は、武士ですか? 

新渡戸稲造は、農学者・教育者でしょう。

武士でない人が武士道を語るのは、おかしくはないでしょうか? 

そもそも、武士道などというものが、本当に存在するのでしょうか? 

新渡戸稲造が創作した、もともと日本にはありもしない考えを、日本古来のものだとして流布したのだとしたら、それは、間違ったことをしでかしたのだと思います。

[武士道]と[葉隠]を取り寄せています。

[葉隠]は、死ぬることを礼賛らいさんしているようだけれども、クソ食らえだわ。

[生きる・死ぬ]ということより、[やり切ること]がテーマなんだから、生き切るしかないでしょ?  もちろん、やり切ったら、あとは自由だけど。

[死ぬることを礼賛らいさんしている]というのは、背景に、死を恐れる心があるんだと思うよ。

[やり切る]という部分にフォーカスしていれば、[生きる・死ぬ]ということは、二の次になると思うから。

結局、[戦争〔いくさ〕で兵隊〔武士〕が死んでいく]ことについて、後押ししたいという思惑があったから、[武士道]と[葉隠]などというものが創作されたのでしょう。

創作ですので、信じるか信じないかはあなた次第です。


戦争を主催する[闇][魔]たちの底意を、しっかりと見抜きましょう。

例えば、戦争に行って人殺しをするより、徴兵拒否で殺されたほうがマシです。

浮遊霊は、霊力の高い、その道のエキスパートが成仏させて差し上げるまでは、その場所をさまよっているのです。

結局、後始末を、そういう霊能者に頼るかたちになってしまうので、浮遊霊になるような、おかしな死に方を選ばないことが大切なのです。

死の先をも見据えて、やり尽くし、満足し尽くしてから、心安らかに死んでいく。 それは、独立した大人としての自分の責任の範疇はんちゅうにあることです。

[自己犠牲をして死んでいく]というのは、[しっかりと死ぬ]という果たすべき責任を果たしていないのです。

自分を生贄いけにえにして、自分を犠牲者ぎせいしゃにして、あとはよきに計らってください、なんて、甘えた考えですよ。

不本意な死に方をするからには、きっと理由があります。

  • [みっともない]と思われるのが怖いから、恥だから。 そういうフラフラしたことでは、死後の世界でも[闇][魔]に騙されて、不本意な生まれ変わりをしてしまいます。
  • 同調圧力に抗するだけの肝っ玉がなかったから、同調圧力に負けた。 そういうフラフラしたことでは、死後の世界でも[闇][魔]に騙されて、不本意な生まれ変わりをしてしまいます。
  • [自己犠牲をして死んだら、来世できっと報われる]など、死を超えた先の打算・損得勘定があったから。 つまり[見返りを求めた自己犠牲]。 清らかな魂は、そういうことを評価しません。 清らかな魂は、[悲しみ][愚かだ]といった感情・思いを抱くだけでしょう。

結局、自己犠牲というかたちで死んだとしても、[闇][魔]に利用されるだけなのですよ。

というより、自己犠牲というかたちで死んだとしても、[闇][魔]との契約を結んでしまい、何回生まれ変わっても、[闇][魔]の支配から逃れられなくなるわけです。


何か大きなものにすがろうといったような、依存心、弱い心が背後にあるから、不本意でも命を投げ出すのでしょう。

要は、自己犠牲とは、弱さを背景にしているか、打算を背景にしているか、といったところで、それは[闇][魔]との縁を深めるだけであり、ろくなことにはなりません。


自分の心に真っ正直に問うて見て、それが不本意だったら、それをせねばいいのですよ。

強さを発揮する場面は、そこです。

不本意なことは絶対にしない。

不本意だったら、勇気をもってやめる。

きっぱりと切る。

この強さが日本人には必要なのです。


信じて、見極めた上で、切るべき対象を切る。 この勇気は必要です。

学校を切る。

会社を切る。

親・家族を切る。

わが子を切る。

友人を切る。

同僚を切る。

なぜ切らなければならないのか? 

それは、自由運動が阻害されるからです。

[自由運動が阻害される]とは、[抑圧よくあつが発生する]ということです。

自由運動が保たれていればこそ、上昇アセンションする人が上昇アセンションすることができるわけです。

まだ低い【周波数】にアンカリングしている人と、ずっとつながったままでは、自分のためにも、全体のためにもなりません。

上昇アセンションへの道を進む人は、いま一時的に誰かとの縁を切ったとしても、先へ進み、先を切り開くことで、その縁を切った相手も上昇アセンションする道筋を切り開くことになるのです。

そして最終的に、縁を一時的に切った人々とも、1つになるのです。

一時の別れです。

スパっと切って、先へ行ける人から、どんどん先へ行きましょう。

幸福に生きる責任

結局、私が幸せでないと、宇宙に不調和が生じて、宇宙に迷惑をかけるんだよ。

つまり、私たちは幸福に生きる権利を有する以前に、幸福に生きる責任を宇宙に対して負っているんだよね。

ということは、自己犠牲をして、[闇][魔]に尽くすということは、宇宙的に見て、大迷惑なのよ。

結局、[自分で自分を幸せにする責任を全うする]ということが基本になるんだね。

[闇][魔]に尽くすということは、[闇][魔]が自分に依存することを許し、かつまた、私自身が[闇][魔]に依存するということなんだわ。

つまり[闇][魔]は共依存関係を常に結びたがっており、[闇][魔]に屈することは、共依存関係を結ぶことを是認したことになる。

これが宇宙のゆがみをつくるんだね。


私たちが[闇][魔]に巻き込まれる理由は、[闇][魔]が強力だから、という理由もあるんだけれども、脇が甘いんだよ私たちは。

つまり[闇][魔]が入るスキを少しでも与えないこと。

徹底的にシールドして、完全にゲートを閉じること。

これが徹底されていないから、[闇][魔]の侵入を許してしまうのだ。