「ジャッジメント」の定義

広義の「ジャッジメント」の定義

私たちが物事に対して価値判断をおこなうことを「ジャッジメント」という。 これは広義のジャッジメントで、相手をへこまそうとか、相手を責めようとか、そういう悪意なしにおこなわれるジャッジメントだ。

私たちには、無数の「ジャッジするときの傾向・クセ」がある。 それが自分の信念体系なのだろう。 つまり「ジャッジする」とは「信念を使ってジャッジする」ことにほかならず、「私がジャッジするときのパターン集」が「私の信念体系」なのだろう。

結局、「信念体系を崩壊させる道」が「あらゆるジャッジメントから解放されて自由になった状態」=「無条件な状態」なのだと思う。

つまり「無条件の愛」に近づくためには、「あらゆるジャッジメントから解放されて自由になった状態」を目指す必要がある。

無条件とは、「360度、すべてにおいて対称性を保つ」ということだと思う。

「レディース専門店」「女性専用車両」というお店・列車があったとする。 これが区別であり、ある意味で、それは差別である。 これが分離である。

「男女に関係なく」というのが統合であり、一致である。

「男女に関係なく」という要素を分解すれば、「レディース専門店」「女性専用車両」の対称性要素として、「メンズ専門店」「男性専用車両」を用意するということになる。

結局、符合を反対にした波形をもつ要素を、同時に用意することによって、「トータルではエネルギーが中和される」ようにする。 水平対向エンジンのような感じの工夫をすることで、振動が少なくなる。 それが調和、バランスということでしょう。

みなもとというのは、完全調和で高速回転している感じがします。 完全調和しないと高速回転できない。 ウラン濃縮のための遠心分離機は、高精度でブレがないものでないといけない。 それが完全調和、いいかえれば、無条件さのイメージだ。

つまり私たちは、みなもとに比べて、調和されていないので、軸がブレているということらしい。

その軸のブレの原因が、非対称性を抱え込んでいること、いわゆる「偏った見方をしている」ということ。

イコール、ジャッジメントを抱え込んで、ムダに感情を生起させて、その感情が燃え切らぬうちにこびりつき、感情ブロックとなって苦しみをもたらしている。

こういう「クソまみれの時空」に私たちは閉じ込められてきたのだということらしい。


「宇宙に善悪はない」「宇宙はすべてOK」という性質は、「無条件さ」そのものである。

その背景には、「完全なる対称性」があるのだと思う。

ある存在が登場したら、その反対要素が登場するようになっていると、「無条件さ」をつくることができる。

「お金のある人しか入れないレストラン」があったら、「お金がなくても入れるレストラン」をつくってしまう。 こういうふうにして、バランスさせてしまう。

だから私は、グリーン車とか、ビジネスクラスとか、マイレージがたくさん溜まった人は特別ラウンジに入れるとか、ああいうのが大嫌いなんだよね。

国内線で飛行機を使うっていうのは、北海道とか沖縄を除いて、禁止したほうがいいよ。 石油資源を採掘することが、地球の活性を弱める大きな原因になってきたわけだから、飛行機というオイルの大口需要を1つ封じることが、地球の健康を回復させる方法の1つなのだと思うから。

新幹線で行ける範囲なのに、どうして飛行機を使うの?  航空燃料というのは、ものすごく燃料を食うんだよ。

伊丹空港・神戸空港・関空などから大阪の中心街まで、電車やバスなどで移動する間に、飛行機の迅速性は打ち消されるんだよね。

大阪の鉄道路線も、たいがい設計が悪いわな? 

新大阪駅と大阪駅と難波駅を合体させて、環状線の一部にしろや、ボケ! 

「新幹線の停まる駅」と「JR線のハブとなる駅」と「巨大バスターミナル」を一致させながら、それを都心を巡回する環状鉄道駅の1つにする。

東京の場合は、都心の環状鉄道である山手線で「東京」と「新宿」が「JR線のハブとなる駅」と「巨大バスターミナル」とを兼ねている。 かつまた、「東京」は「新幹線の停まる駅」を兼ねている。

大阪の場合は、新大阪駅や大阪駅の機能を、難波に移転して、難波を大阪都の交通の中心に据えるのが適切だと思う。 そのためには、新幹線は地下を通して、新幹線ホームとOCATが、エレベーターで行き来できるようにする。 そして在阪の私鉄各社も、難波駅に乗り入れる(近鉄はそうなっている)。

例えば、「名古屋から和歌山に帰りたい(あるいは関空へ向かいたい)」という場合、名古屋から近鉄で難波まで出て、難波のOCATから高速バスで和歌山に帰るというのが、大きな荷物を持った移動の距離が最も小さくなるパターンだと思う。 電車を乗り換えるごとに、大きなコロを転がしていくというのは、たいへん疲れる。

そうやって「難波中心の大阪都の建て直し」を考えたほうがいいと思う。

大阪駅(梅田)というのも、中心街であるようで、ないような、中途半端な場所なんだよね。

東京の場合、池袋・新宿・渋谷という3つの小都市(ターミナル駅)がハッキリしていて、東京駅も小都市といえばそうなのだけれども、東京駅に商業的な栄えは、あまり見られない。 東京の主要な小都市は池袋・新宿・渋谷という3つのターミナル駅に集約される。

大阪というのは、中心となる都市がないんだよ。 新大阪駅も、大阪駅(梅田)も、難波も、きわめて中途半端で、ドカンと大きいのがない。

それから、JR環状線の鶴橋なんぞはつぶして、環状線のルートを曲げて、難波に環状線を通せや、ボケ! 

大阪のJR環状線の駅が、セコいというか、ショボいというか、マイナーというか、ヘンな駅ばっかりなんだよ。

大阪のJR環状線は、「東京の池袋・新宿・渋谷という3つの小都市(ターミナル駅)」みたいに、私鉄との接続を考えて、環状鉄道の中にターミナル駅をつくる。 そのように、全体を整理して、再構成する必要がある。 大阪が発展しないのは、都市機能がクソだからだよ。

そもそも、ビジネス用途だと、名古屋の次は新大阪であって欲しいわけよ。 京都を迂回する理由がないわけ。 名古屋から山岳地帯をトンネルでブチ抜いて、奈良に出て、大阪に直接出たいわけよ(新幹線平城京ルート)。

「大阪から名古屋へ出たい人」「名古屋から大阪へ出たい人」で、京都に用事がない人は、近鉄アーバンライナーを使うわけよ。 近鉄アーバンライナーは、大阪上本町とか、難波の地下に着くんだよね。 名古屋から大阪へ向かうときに使った。 これは、けっこういい電車だよ。 名古屋から伊勢志摩に行くときは、近鉄よりもJRの快速のほうが速いと思う。

「ジャッジメント」の背景には信念がある。 「これは、こうあるべき」「これは、こうするべき」といった、決めつけ(固定された価値判断)がある。

「これは、こうあるべき」「これは、こうするべき」というのが、「対称性を崩している」でしょ? 

「こうあってもいいし、あああってもいい。どちらでもOK」。それが対称性。

「こうしてもいいし、ああしてもいい。どちらでもOK」。それが対称性。

対称性が無条件(unconditionalness)を構成する因子になっている。


「宇宙は循環の場」であり、とりわけ「この宇宙」は右ネジの法則に基づいて、「進行方向に鼻先を向けたとき、時計回りに回転するスパイラルとして循環する場」である。

エネルギー・ワークとして、みなもとに何かを放り込む場合でも、右ネジの法則に基づいて、「進行方向に鼻先を向けたとき、時計回りに回転するスパイラルとして循環する」ところをイメージする。

「この宇宙」は「右ネジの法則の場」であることは、エネルギー・ワークの手順を覚えるのがラクになる知識である。

それは「この宇宙」の特性であり、「この宇宙」と鏡面の対象をなす宇宙がたぶんあると思うので、そちらは「左ネジの法則の場」なんだと思うよ。

狭義の「ジャッジメント」の定義

スピリチュアリズムでいうjudgmentの定義は、たぶん、こんなふうだと思う。

judgment|罪悪感や恐怖心や悲しみなどのネガティブな感情をもたらす意見|opinions that bring negative feelings such as guilt, fear and sadness and so on

judge|罪悪感や恐怖心や悲しみなどのネガティブな感情をもたらす意見を述べる|to state opinions that bring negative feelings such as guilt, fear and sadness and so on


つまり「判断する」という原義よりも、「対象を否定的に捉えて断罪し、対象をへこませる」というニュアンスが、スピリチュアル用語としての「ジャッジメント」には含まれている。


また逆に、「それはジャッジメントではないか」と、誰かを攻撃/反撃する場合にも「ジャッジ」という概念が使われ、相手のニュートラルな意見をヒネて受け取り、相手をへこませる感じで攻撃する発言が、そこには見られる。

「意識を外側へ向けるなかれ」の真意その-4|「外側」とは「彼ら(闇の勢力)がつくった現実」=「マトリックス」だから「意識を外側へ向けるなかれ」

つまり集合意識という大規模なかたちで「彼ら(闇の勢力)がつくった現実」=「マトリックス」に没入してしまっている状態を「眠っている」というふうに、バシャール、関野あや子さん、並木良和さんたちは表現している。

「現実について責任感をもちすぎる」というのは、「彼ら(闇の勢力)がつくった現実」=「マトリックス」に没入してしまっている状態だからダメ。

「自分の周波数には責任感をもつことは必ず必要である」けれども「現実について責任感をもちすぎるのはダメ」だということになる。

「現実については、ある程度、責任放棄していい。 つまり「会社をやめると迷惑がかかる」とかいうことを考えずに、自分勝手に会社をやめることを恐れないでほしい。 「会社に悪いから」というのは他人軸。 「会社に悪いから」で縛られ続けていると、いつまでたっても終わらないんだよ。 スパッとやめちまえ! 

「マトリックスへの没入状態」を停止することをやめることを「意識を内側に向ける」と表現しているらしい。

「マトリックスへの没入状態」は、一種の「陶酔状態」であろう。

「陶酔状態」から覚めるのが「目醒め」「覚醒」ということらしい。

結局、「我に返る(to return to oneself)」ということが「目醒め」「覚醒」ということらしい。

ブームが起こるとき、対象の欠点が見えなくなってしまう。

対象が勢いを失うと、途端に対象の欠点が見えてくるようになる。

「ブーム」とか「勢い」の本質は、私たちの「陶酔状態」にすぎない。

受け手側が「陶酔状態」に陥った結果、受け手側の解釈/認知のあり方(バイアスのかけ方)が違っているだけで、対象は、昔からそんなに変化していない。 これが冷静な見方であろう。

解釈/認知のあり方(バイアスのかけ方)の擾乱を鎮めて、我に返る(to return to oneself)ことを「目醒め」「覚醒」と、バシャール系はゆっているのだろう。

「目醒め」「覚醒」とは、「ふと我に返ること」であろう。

自分が人生の大きな失敗をする、大きく挫折するなど、自分のハイヤーセルフが「現実を崩壊させる」ことによって、「ふと我に返ること」を大きく手助けすることがある。

現実がうまくいかなくなるのは「我に返りなさい」という自分のハイヤーセルフからの緊急指令だと考えて、ほぼ間違いない。

「我に返りなさい」とは、「そのようなことにかまけている場合ではありませんよ」という自分のハイヤーセルフからの警告(ウォーニング)である。

カンカンカンと警鐘が鳴らされているのである。

この「大ヒント」に気づく人も、気づかない人もいる。

「意識を外側へ向けるなかれ」の真意その-3|「意識を外側へ向ける」とは自分の周波数が現象を映し出している件(現象は100%自分の責任である件)を忘れさせるから「意識を外側へ向けるなかれ」

turn consciousness outward|意識を外側に向ける
turn consciousness inward|意識を内側に向ける

turn consciousness outward - Google 検索

sleeping(眠り) getting involved in the reality and completely immersing in reality
現実に関わり、現実に完全に没入すること


HTML、CSS、JavaScriptを組み合わせたページが、インターネット・ブラウザでレンダリングされる。

このとき、レンダリングされた内容を直接編集しようとしても無理。

「レンダリングされた内容を直接編集しようとする」のが、「現実に関わり、現実に完全に没入する生き方」。

それが「意識を外側に向けた状態」。


「意識を外側に向けた状態」とは、ブラウザにレンダリングされた文字・画像などに関わり、そこへ没入し、そことインタラクション(相互作用)を取り合うこと。

しかしブラウザにレンダリングされた文字・画像などは、HTML、CSS、JavaScriptなどを編集しないかぎり、自分の思ったかたちに変わることがない。

いいかえれば、「努力して現実を変えようとする」のは、現実への責任の持ち方に、大きな錯誤があるということになると思う。


地球という学びの空間(「地球学校」)では、「努力して現実を変えようとする」ことを高く評価してきた。

また「努力して現実を変えようとする」ことを経験しようと、魂の青写真を描いて転生してきた人もいると思う。

「地球学校」は「デュアリティ・モード(二元性モード)」かつ「リミテッド・モード(制限付きモード)」の「現実」を体験するための、特殊空間だったのだと思う。

「二元性」と「制限」に支配された特殊空間の中で、

「努力して現実を変えようとする」ときに、どういう感情が発生するのか。 いわば、そのデータを取るために実験的に転生している。 私たちの一生というのは、そういう実験的な部分をもっているらしい。

ところが「【朗報!】地球学校・廃校のお知らせ」というのが入ってきた。

たぶん地球(ガイア)が3次元世界での展開を終了させ、5次元世界で「ニューアース」として、リニューアル・オープンする件は、私たちが地球に移住してきて、地球での輪廻転生をする前から決定していた「既定路線だった」のだとは思う。 でも、私たちの表層意識としては、「【朗報!】地球学校・廃校のお知らせ」というのは、急に入ってきたように感じられる。

いずれにしても、「地球学校」が終わるとなった時点を境として、大きな価値の転換があった。

従前は「3次元での出来事にかんして、努力して現実を変えようとする」ことを高く評価していた。

しかし、「地球学校」が終わることが決定してからは、3次元での出来事について、切りのいいところで終わらせるようなエネルギーが強く降り注いでいる感じがする。


誤解していただきたくないのは、「努力して現実を変えようとする」ということは、尊いことである。

私たちが周波数を上げて5次元を目指そうと決意し、努力する過程は、まさに「努力して現実を変えようとする」営みの連続である。

その姿勢は素晴らしい姿勢であり、「努力して現実を変えようとする」という姿勢なしに、周波数を上げていくことはできない。

この項で問題にしているのは、あくまでも、3次元世界の「現実」に没入することへの警鐘である。

もちろん、あらゆるジャッジメントを離れた立場からすると、「現実」に没入したって、まったくかまわない。 問題なしである。

しかし、次元上昇を目指すと仮定した場合には、いまこの時点は、「3次元での出来事にかんして、努力して現実を変えようとする」時期ではないということになる。

「3次元での出来事にかんして、努力して現実を変えようとすること」=「3次元での出来事、つまり、現実に没入してしまっていること」になる。

それは、地球学校を卒業して次元上昇を目指す立場からすると「いまそれやっとる場合かい?」ということになる。

「努力して現実を変えようとする」という姿勢を発揮するとき、対象となる「現実」が、どの「現実」なのか? 

この3次元の「外側の現実」なのか? 

それとも「夢で経験する内容、あるいは、自分でイメージする世界を含めた、自分の内側の現実」なのか? 

少なくとも、3次元の「外側の現実」にフォーカスしてしまっている場合には、地球学校を卒業して次元上昇を目指す立場からすると「いまそれやっとる場合かい?」ということになる。

「努力して現実を変えようとする」という姿勢が、あらゆる場面で否定される、ということではないので、そのあたりは、わかっていただきたい。


「意識を内側に向けた状態」とは、HTML、CSS、JavaScriptなどを編集すること。

いいかえれば、サーバーサイドを編集することが、「意識を内側に向けた状態」。

いいかえれば、「意識を内側に向けた状態」とは、「原因系」(causal system)を編集すること。

「原因系(causal system)を編集する」とは、「統合」したり、「バイオレット・フレームで低い周波数を燃やして浄化したり」「低い周波数をくくることでエネルギーが行き届かなくさせたり(くくり姫)」「アファメーションをしたり」「こうなりたいことを強く鮮明にイメージしたり」することなどなど。

「原因系(causal system)を編集する」とは、自分の内側のデータを編集すること。


ただし、引き寄せの法則(law of attraction)を「現実を自分の思った通りに変える」ために使うと、「原因系」(causal system)を編集することを、「現実に関わり、現実に完全に没入すること」に使ってしまうので、最終的には破綻(はたん)すると考えられる。

つまり「エゴが思った通りに現実を変化させるためにスピリチュアルなテクニックを使う」と、好ましくない結末に至る。


現在というタイミングは、「原因系」(causal system)を編集することを、垂直上昇(vertical ascension)にだけ使うのが次元上昇へと向かうことができる、たぶん唯一の道だと考えられる。

「統合」したり、「バイオレット・フレームで低い周波数を燃やして浄化したり」「低い周波数をくくることでエネルギーが行き届かなくさせたり(くくり姫)」「アファメーションをしたり」「こうなりたいことを強く鮮明にイメージしたり」することなどなどは、垂直上昇(vertical ascension)にだけ使う。

現実とは周波数の付随物だから、良くなっても喜ばず、悪くなっても悲しまず、自分の精神的なエネルギーは、垂直上昇(vertical ascension)にだけ使うようにする。

余計なことをしないで、垂直上昇(vertical ascension)にだけ専念する。 これがたぶん「意識を内側に向けた状態」なのだと思う。

「意識を外側へ向けるなかれ」の真意その-2|「低い周波数の人」は上昇への道を進み始めたあなたに「躊躇・逡巡のループ」をもたらすから「意識を外側へ向けるなかれ」

「低い周波数の人との関係をもちつづけると、「次元上昇への道へ進もうか、進むまいか」という「躊躇・逡巡のループ」にはまる。

この「躊躇・逡巡のループ」は、周波数としては、だいぶ下がるらしい。

つまり確信をもって、その道を選択することが「自分と一致した生き方」なので、「躊躇・逡巡のループ」をもたらすような相手とは、交流を断ち切ったほうがよい。

結局、次元上昇への道を歩み始めて、まだ確信がもてない段階では、ブレやすいと思われる。

進めば進むほど、これで間違いないと思えるようになってくる。

「意識を外側へ向けるなかれ」の真意その-1|「私たちは低い周波数で共振するように刷り込みを受けている」ので「意識を外側へ向けるなかれ」

「世間の常識」に合わせて社会活動を続けているかぎり、お互いが縛り合うことで、「マインドの活性度を高めた生き方」=「いわゆる『眠った生き方』」をやめたくてもやめられない状況におちいる。 それは、細い道で2台の自動車が出会って、道を譲り合っているうちに、どちらも進めなくなるのと似ている。 そんなふうに「彼ら」(闇の勢力)が仕組んでいるのだと思う。

「世間の常識」に合わせて社会活動を続けることは、「低い周波数」で共振し合う関係性を、いつまでも維持することだ。

お互いに「世間」を演じ合う、ハウリングのようなループ状態は、どこかで終わりにする必要がある。 それが、いまだということになる。 つまり「世間の常識」に合わせて社会活動を続けることを、緊急停止する必要がある。

「マインドの活性度を高めた生き方」とは、「低い周波数で生きる生き方」なので、マインド活性化のために「くだらないしきたりで満杯になっている世間というもの」との関係性を断ち切らなければ、次元上昇にはつながらないようになっている。 「彼ら」(闇の勢力)が仕掛けたワナの1つが、これだと思う。

それで、「世間の常識」の水準でしかつながっていない人間関係は、「マインドの活性度を高めた生き方」を、お互いに強制し合う関係そのものであるから、ぜんぶ解消していい。 というより、解消しないといけない。

いわゆる「世間」というものを、終わらせることが大事だ。

それは結局、「自分軸を取り戻すためにわがままになりなさい」ということになる。 わがままになるのは、「世間」を終了させ、自分のハイヤーセルフと関係性を修復する活動に入るために、自由な活動が始められるようにするため。

「自分が最も周波数を上昇させやすい環境」=「自分にとっての最適な環境」をそれぞれの魂がつくりあげて

私たちが「世間」とつながっているかぎり、「マインド」を使い続ける必要がどうしてもしょうじてしまう。

「世間」と距離を置き、本当に自分が信頼している人以外との人間関係を解消し、生活をシンプルにし、自分のハイヤーセルフとの関係修復に入るべき時期である。

「意識を外側へ向けるなかれ」の「外側」とは「世間」のことだ。

「世間」に合わせて生きるように刷り込まれた人どうしが、お互いに「世間」を演じ合ううちに、「低い周波数で振動し続ける」=「ループする」=「ハウリングを起こす」という状態になる。

これを終わらせる。

ちなみに、「周波数の低い状態」というのは、ずっと続くわけではない。

つまり私たちは「周波数固定型のラジオ/無線機」ではなく、周波数を変えることが可能なのだ。

「周波数を変えることが可能」であることを忘れ去っている人が、いまのところ地球では多いというだけのこと。


あと、ものすごい落とし穴だと感じるのは、スピリチュアルな意味で同好の士が集まることによって、そのグループが「世間」になってしまい、そのグループが「意識を外側に向ける場」になっているケース。

「意識を外側へ向けるなかれ」の真意その0|「自分の内側との接続を回復する」ために「意識を外側へ向けるなかれ」

「自分の内側との接続を回復する」ことが「自分とみなもととの接続を回復する」ための前提条件になっているのだと思う。

そして「自分とみなもととの接続を回復する」ことが覚醒や次元上昇なのだと思う。

「自分のハイヤーセルフ」とつながる以前に「自分の内側」とつながる必要がある

「自分のハイヤーセルフ」と常時接続状態になることが次元上昇であるらしい。

「自分のハイヤーセルフ」との直接接続を邪魔するゴミを取り除くことが「心の浄化」であり、その方法の1つとして「統合」がある。

「自分のハイヤーセルフ」と直接接続する準備として、「自分の内側」との接続を回復する必要がある。

私たちが物事を判断するとき、「自分の内側」を何よりも先に参照し、「自分が対象を好きなのか、好きでないのか」「自分が対象をやりたいのか、やりたくないのか」などを調べる必要がある。

つまり「自分への問いかけ」が何よりも先におこなわれるべきである。

それなのに、私たちは「周囲の状況を見てから判断する」「パートナーや親などに相談してから決める」など、「世間体」や「他者との関係性」をまず考えてから、その範囲内で物事を判断し、決定する傾向が強い。

これでは「自分をいちばん後回し、あるいは、ないがしろにしている」ことになる。

こんなふうに自分を粗末にする生き方を繰り返していると、まず「自分の内側」がいじけてしまうんだよね。

そうすると「自分の本音がわからなくなる」「自分が何をやりたいのかわからなくなる」といった、一種の精神的やまいにかかってしまうことになる。

結局、「自分の内側」を放置しておいたので、「自分の内側」との関係性が悪くなってしまう。

自分という人格の中で「家庭不和」「家庭崩壊」が起こってしまっている。 それが現代人が「彼ら」(闇の勢力)から洗脳を受けてきた結果なのだと思う。

これではいかん! 

その対策として、「自分の内側」を愛情でたっぷりと満たし、ある意味で甘やかし、元気づけ、自信を取り戻させる必要がある。

愛情飢餓の緊急事態のもとでは、甘やかしも大事な要素であると思う。

「甘やかされた結果としてスポイルされた状態(人間的に堕落したような状態)」というのは、成長の途中の段階なんだよ。 「成長過程は順調だから、そのまま続ければOK」なんだよね、実際には。

繰り返しになりますけれども、「ある人格について、これまで愛情という燃料が不足してきた中、ある時点から、その人格に愛情が急激に注入され、その結果、その人格のエゴが一時的に肥大化した状態」というのは、正常な過程をたどっているのだ。 それは「心配ないから、そのまま続けてください」が、よき判断だと思う。

ところが、「甘やかされた結果としてスポイルされた状態」を「悪しきこと」だとジャッジして、「成長過程は順調」という部分を無視して、「甘やかしたらダメだ」という「立派そうな理由」をつけることで、成長を途中でつぶしてしまうことが多い。

エゴが肥大化した状態から、いろいろな経験を積んでいくことによって、エゴの大きさは正常化すると思う。

だから「その人格の内側のすみずみにまで愛情が完全に行き渡り、その人格が完全に満たされ、愛情があふれ出す」までは、甘やかす必要がある。

そうだというのに、「甘やかしは人間をスポイルするからダメ」というジャッジメントに基づき、愛情の注入を途中でやめるから、中途半端な「わがままな子」「わがままな大人」になってしまうのだと思う。

愛情の注入が足りないのだから、さらに増量して継ぎ足すというのが解決策だと思う。

たぶん、以下のような成長プロセスになるのだろうと私は思っている。

「対象への愛情の大量注入」 → 「対象のエゴが肥大化する」 → 「対象が他者とぶつかり合いながら学び成長する」 → 「対象の『エゴの肥大化』が解消されて正常化する」

全工程の前半部である「対象への愛情の大量注入」 → 「対象のエゴが肥大化する」という部分だけを拡大して見るから、「甘やかしはイカン」という結論になるのだと思う。

もっと先へ進めば、正常化されるから、恐れずに愛情の大量注入を続ける必要があるのだと私は思っている。


とにかく、「自分のハイヤーセルフ」とつながる以前に「自分の内側」とのつながりを確立する必要がある。

つまり「自分の内側」という「意識の表層的な部分」にすらつながっていない状態では、「意識の深奥(しんおう)にある自分のハイヤーセルフ」とつながれるわけがない。

「まず玄関まで入れるようにしろ」「そこから先へ行くのは、まず玄関に到達してからだ」ということだと思う。

つまり「自分の内側」との関係性を回復せよ! ということだろう。

これが並木良和さんの「自分軸を取り戻して目醒めるために、わがまなになりなさい」というインストラクションの真意であると思われる。

結局、「自分の内側」というものは、成長過程において「甘やかしてもらう時期」=「無条件に安心してエゴを肥大化させることができる時期」を必要としているのだ。

肥大化したエゴの削り込みは、その後の工程だから、とりあえず「萎縮していじけているエゴを盛り上げて、ふくらませてやる」ことが大事なのである。


ただし、この世はジャッジメントに満ちあふれているから、ひとさまとぶつかり合うようなタイミング/場所/場合で、不用意に「自分軸を取り戻して目醒めるために、わがまなになりなさい」を実践すると、必要のないぶつかり合いが出てくる。

結果として、せっかく「肥大化を目指して成長しようとしているエゴ」の成長に水を差すことになる。

他者からのジャッジメントによって、せっかく「自分の内面」を育てようとしているのに、それではまたエゴが萎縮してしまう。

そうならないためには、ある意味「意識を外側に向ける」必要がある。

これは「外側を見て萎縮しなさい」という意味ではなく、「エゴの肥大化に水を差すような事案が発生しないようにするため」に、攻撃されない状態であることを確かめたうえで、「自分軸を取り戻して目醒めるために、わがまなになりなさい」ということである。

その「攻撃されない状態であることを確かめる」さいにある意味「意識を外側に向ける」必要があるのだ。

「人格の成長過程では、見苦しいところもあるけれども、そこを攻撃されないように、しっかりとガードする」という意味において「意識を外側に向ける」=「マインドを発動する」ことも大事である。

だから、このあたりは、もうちょっときめ細かな名称づけが必要だろう。

現状では、同じ用語を使って、別のことを表す状態になっている。

愛情という「一種の光」はどこから生まれてくるのか

「愛情」と「愛」は、別の概念だけれども、きわめて似ている。

「愛情」から「エゴ」の成分を取り除けば、「愛」になるのかもしれない。 私はそういうふうに解釈している。

いいかえれば、「愛」にノイズ成分が付け加わり、純度の低下した「愛」のことを「愛情」とゆっているのだろう。


いいかえれば、「愛情」には「愛」の成分が含まれているから、「愛情」と「愛」を完全に別物と解釈し、「愛情」を忌み嫌う必要はない。

「愛情」を強めていき、そこから「エゴ」の成分を取り除く(ノイズリダクションする)ことによって「愛」に近いものになる。

「愛情」すらもつことのできない人に、「愛」をもつことなどできないというのが、実際的な姿なのだろうと思う。

つまり「愛情」たっぷりの人が「エゴ」を小さくしていくにつれて「愛」に満ちた存在へと純化されていく。

この考え方で、大きくは間違っていないと思う。


それよりも「愛情」の構成要素である「愛」のエネルギーを、私たちはどこから得ているのか? という点にフォーカスする必要性を強く感じる。

例えば、「可愛らしい動物や小鳥」「可愛らしい赤ちゃんや子供」と見たとき、「愛情」が自然と湧いてくる。

この「愛情」がどこからやってくるのか? 

これはみなもと以外にあり得ないと思う。

つまり「愛情」を感じているとき、私たちはみなもととのつながりを回復しているらしい。 これは、たぶん当たっているのだと思う。

逆にいえば、「可愛らしく感じるもの」というのは、みなもととつながる心地よさを思い出すためのシンボル(象徴)、または、リマインダー(思い出すきっかけを与えてくれる要素)にすぎないのだと思う。

「可愛らしく感じるもの」が何であっても、「愛情」という周波数をみなもとから導き出すための「発動スイッチ」にすぎない。

逆にいえば、「可愛らしく感じるもの」などのシンボル(象徴)を適切に活用することによって、みなもととのつながりを、効率よく取り戻していくことができるであろう。

「ああ可愛い」「大事にしたい」と思うとき「愛情」が生まれているので、それはみなもととつながっている時間帯だと判断することができる。

そこに「独占したい」「束縛したい」「手放したくない」などの「エゴ」が加わるからノイズになってしまい、おかしなことになるのだ。

それと同時に、「ああ可愛い」「大事にしたい」と思う、その「愛情」の周波数にフォーカスすることが大事で、その周波数をグングン増大させていくことが大事だと思う。

いいかえれば、「ああ可愛い」「大事にしたい」と思う対象にフォーカスしない。 この対象こそが「外側」そのものなのだ。 「外側」に意識を向けるから、「独占したい」「束縛したい」「手放したくない」などの「エゴ」が生まれるのだろうと思う。

いいかえれば、「外側」は関係なく、「ああ可愛い」「大事にしたい」と思う、その「愛情」の周波数に、内側でフォーカスしつづける能力を開発する。

これが「内側への旅への出発」つまり「瞑想の始まり」なのかもしれない。

外側は周波数を呼び起こす「呼び水としての象徴」でしかない。

内側で起こっている、愛情の周波数の甘酸っぱさ、温かさ、やわらかさそのものを内側の現象として楽しむ。

そんなことをしっかりと意識し続けていれば、「愛情の対象」を「独占したい」「束縛したい」「手放したくない」などの「エゴ」の対象として見ることがなくなると思う。

「エゴ」のない状態で「愛情の世界」を楽しむかぎりは、愛情にかんする苦しみは起こらないと思う。

「愛情の世界」の結末がドロドロになりがちなのは、「エゴ」がもたらすエミッション(emission:排出物質)が、場を汚すからだと思う。

「エゴ」のない状態で「愛情の世界」を楽しむかぎりはゼロ・エミッションの愛情世界を楽しむことができるのではないか。

外側にとらわれず、内側に集中して物事を楽しんだときに、「エゴ」のない、ゼロ・エミッションが保証された喜びの世界があるのではないかと思う。


そして、喜びの世界は、必ず内側に「エンジン」があるのだと感じている。

「愛情を感じる対象」が喜びをもたらしているのではない。

「愛情を感じる対象」が、私の中で、「私とみなもととのつながりを回復させてくれるアクティベーターになってくれる」ので、喜びが発生するのである。

喜びはぜんぶ内側で起こっている。

そして、内側の喜びを集中的に発生させるおこないが、瞑想ということになるのだと思う。

自分との対話の時間を増やすことが、自分とみなもととのつながりを回復することである。

自分とみなもととのつながりが回復すれば、喜びに満ちた時間が増えるし、覚醒や次元上昇にも結びつく。

「意識を外側へ向けるなかれ」の真意その1|「あなたはすでに、すべてを手にしている」がゆえに「意識を外側へ向けるなかれ」

「外側に求めなくても大丈夫だよ」「なぜならば、あなたはすでに、すべてを手にしているのだから」というのが、「意識を外側へ向けるなかれ」の真意の第1だと思う。


「分離」について、「私が現在得ている感覚」の範囲でメモを残しておきます。 このメモは「暫定情報」にすぎませんから、正しくない可能性もあるので、そのあたりは自己責任でお願いします。

(1)「観測者〔ウォッチャー〕としての自分」。「観測者としての自分」は「みなもとによって最初から与えられている自分自身」だと思う。

(2)「マインド」=「固定観念の記憶装置(ストレージ)」。「マインド」に「こういう外部からの刺激が来たとき、こう考えて、こういう感情を発生させる」という「感情マクロ」などなどが登録されている。 「感情マクロ」が発動するのは、個々の「感情マクロ」に適する周波数を自分が発しているときだけ。 自分がその周波数を使わなくなれば、その周波数に見合った「感情マクロ」も発動されない。 したがって、「感情マクロ」を編集(エディット)しようとか、「感情マクロ」を削除(デリート)しようとするのではない。 「自分がその周波数を使わなくなる」ということを目指す。 それが「統合」だと自分としては思っている。

(3)結局、「観測者としての自分」を「マインド」がハイジャックしている(乗っ取っている)というのが現状だということになる。 いいかえれば、「観測者としての自分」と「マインド」とが、周波数を媒介として、紐付けられている。 この紐付けの「データベース・レコードを1行ずつ」=「周波数を1ヘルツ単位?で」「紐付け無効」に変更していく。 これが「統合」であろうと思っている。

(4)「観測者としての自分」が「マインド」との結びつきを深めたのは、3次元地球の生活環境に適応するためだった。 つまり「マインド」という道具を使ってきたのは、3次元地球で自分自身を守護し、自分自身が生きながらえるためだった。 地球環境の状況設定は、多くの経験を積み、その経験から学びを得て成長するために人工的に設定されたものである。 つまり地球は学びと成長を目的とした学校だったのである(「地球学校」という考え方)。 これで「地球の次元上昇」が既定路線となる。 地球は5次元のふつうの惑星になることを決意した。 5次元に移行した地球を「ニューアース」または「テラ・ノヴァ」などと呼ぶことがある。 地球はその住人である私たちをニューアースへと連れて行きたがっている。 私たち地球の住人の多くも、ニューアースへと移行したいであろうと推定される。

(5)地球の周波数を上げるためには、私たち地球の住人も、それに見合うように周波数を上げる必要がある。 これは「地球とその住人との周波数における一致の定理」とでもいうべきもので、この条件は物理法則のようなもので、曲げることができない。 地球が「ニューアース」へと移行する過程は「周波数を上げる過程」=「次元上昇の過程」である。 私たち地球の住人も「ニューアース」へと移行しようと思ったら、「周波数を上げる過程」=「次元上昇の過程」を通過する必要が、どうしてもある。 「周波数を上げるための有力な方法」の1つが「統合」である。

(6)私たち地球の住人の周波数が思ったように上がらない場合、そのツケをどこかで解消する必要が、どうしてもある。 ツケの解消の方法の1つが大きな自然災害であり、大きな自然災害を通じて、ある種の淘汰がおこなわれるという情報もある。 しかし、無数にある並行現実のうち、どれを選択するかは、直前にならないとわからない。 きわめて流動的である。 いいかえれば、私たち次第である。

(7)周波数を上昇させること。 それは「観測者としての自分」と「マインド」との密接な関係性を解消して、「観測者としての自分」と「自分のハイヤーセルフ」との密接な関係性を復活させるということである。 「観測者としての自分」から見たとき、つながる先のステーションを「マインド」から「観測者としての自分」へと切り替えることを「覚醒」や「目醒め」という用語で表現しているらしい。

(8)ただし、私たちの肉体はまだ「マインド」を使わなければ生活しがたい「ニューアース」ではない、「現行の地球」にとどまっている。 あと5年ぐらいで次元上昇が起こるという説もある。 その説が正しいと仮定すれば、あと5年間ぐらいは「マインド」の働きも残しておく必要が、どうしてもある。 しかし、これまでのように「マインド」を野放図に活動させることは、私たちが「ニューアース」へと移行できなくなる原因となる。 というのも「マインド」の周波数は、低い周波数だからだ。

※例えば、「相手から騙されるかもしれない」という「疑念」の波動は「マインド」のたまものである。 「疑念」を捨てないからこそ、この世で騙されないで済む。 そういうメリットもあると思う。 ところが、「疑念」そのものが周波数の低い心的状態なので、この「疑念」を現出している周波数と「観測者としての自分」との紐付け関係を解消しなければ、「現行の地球」に縛り付けられることになる。 イコール、私たちが「ニューアース」へと移行できなくなる原因となる。 その「周波数にまつわる紐付け関係を解消するワーク」が「統合」なのである。

(9)「観測者としての自分」と「マインド」とが強く紐付いた状態を「眠り」という、ある種、差別的な言い回しで表現する。 これは「覚醒」の対義語として「眠り」という言葉を用いたのだろうけれども、言葉の選び方がマズいと思う。 「眠り」について、人間の世界にはネガティブなイメージがある。 「眠り」と「不見識さ」は同じ意味として語られることがある。 「眠り」と「怠惰さ」は同じ意味として語られることがある。 ジャッジするつもりがなくても、「眠り」という言葉が含み持っている「隠された意味合い」=「コノテーション」によって、 「眠り」という言葉そのものが相手を傷つけることがある。 実際、「あなたは眠っている」などの指摘を受けたとしたら、それは気分のいいものではない。

(10)いま地球に転生してきている人たちは、みずから志願して、この地球で学びを得て、それから肉体をもったまま次元上昇を達成しようという、見上げた心がけの魂ばかりである。 そういう立派な魂に対して「あなたは眠っている」という言葉を浴びせるとしたら、反感を抱かれて当然であろうと思う。 慈愛の波動で「眠り」とゆわれたとしても、「眠り」という言葉にすでに手垢がついている(=ネガティブなコノテーションを伴っている)以上、話者の周波数、話者の意図とは無関係に、「眠り」という言葉の周波数が、ゆわれた人を傷つける側面が、どうしてもあると思う。

(11)私たちは「分離」から「統合」へという大工事をおこなっている。 「観測者としての自分」と「自分のハイヤーセルフ」との「統合」=「再接続」を次元上昇というらしい。 つまり私たちの周波数を上げることは、おもな接続先を「マインド」から「自分のハイヤーセルフ」へと変更することであり、「観測者としての自分」と「自分のハイヤーセルフ」とが常時接続された状態が安定することが、次元上昇という状態であるらしい。 そして次元上昇を達成することが「ニューアース」へ転入することができる条件になっている。 次元上昇を達成しないと「ニューアース」へ転入できない。 この重要情報を伝達することが、スピリチュアリズムに与えられた使命の1つである。

(12)この重要情報を伝達するにあたって、この重要情報に触れていない人たちを「まだ眠っている人」呼ばわりするということに、ものすごく違和感を感じる。 「まだ眠っている人」という言葉づかいに「愛や調和や感謝や敬意などなど」があるのだろうか?  そのことを、私は述べている。 「覚醒=目醒め」と「眠り」という言葉に、「良いと悪い」「優越と劣等」「先進と後進」などのニュアンスを私は感じる。 それがジャッジメントなんだよ。 「統合」しなさい。 いやいや、ちょっと待てよ。 言葉づかいが悪いとゆっているだけだよ。 真意が別のところにあったとしても、「眠り」というのは、言葉のチョイスが最悪だよ。 たとえ大天使が「それはそれで正しい」とゆったとしても、私は「眠り」という言葉がヘンだと感じるよ。

※釣りマニアのことを「釣りバカ」「釣りキチ」などという。 昭和時代においては、「マニア」のことを「キチガイ」と表現してもかまわなかった。 時代が進むにつれて、「キチガイ」という言葉が、一部の人たちを著しく傷つけることが判明し、「キチガイ」という言葉を使うことを慎むようになった。 「釣りバカ」「釣りキチ」といった用語に、まったく悪意などない。 しかし「釣りバカ」「釣りキチ」には、「バカ」「キチガイ」という不適切な言葉が含まれている。 これもまた事実である。 「釣りバカ」「釣りキチ」といった用語を、どんなにニュートラルな気持ちで使っていたとしても、「バカ」「キチガイ」という言葉に嫌悪感を抱く人も多かろうと思う。 こういう場合、「バカ」「キチガイ」などの言葉を引っ込める勇気があれば、最高である。 「眠り」という言葉には、「寝ぼけるな」「目を覚ませ」といった言葉づかいにつながる、ある種の差別や攻撃性が含まれているように、私は感じる。

(13)覚醒と次元上昇をするためのツールとして「自分によく合っている使いやすいツール」とすでに巡り合った人は、情報を入力することを制限し始める必要があると思う。 情報の入力は「自分によく合っている使いやすいツール」を見つけるためだった。 「自分によく合っている使いやすいツール」が見つかったら、あとはそれを使いこなす。 つまり「自分によく合っている使いやすいツール」を使いこなしながら、自分が最も心地よい状態で日常を営む。 そちらに時間を割いたほうがよい。 この次元では、時間は有限だから、時間をうまく使う必要があると思う。 そうやって営む「日常」というものが、自分がこの世でやろうと思って計画してきたことなのだと思う。 その「計画してきたこと」を「ミッション」や「お役目」と呼ぶこともある。 その「ミッション」や「お役目」が、次元上昇のさらなる進展に必要不可欠なものであるらしい。 次元上昇は、1人とて欠けてはならぬ、壮大な共同作業になっているらしい。 だから自己無価値感などにとらわれて、しょんぼりする必要はない。 私もあなたも、次元上昇になくてはならぬ存在である。


「あなたはすでに、すべてを手にしている」から「外側に求めなくても大丈夫だよ」というのは、スピリチュアリストへの依存をやめるということにも通じる。

「自分のハイヤーセルフ」そのものが、「あなたはすでに、すべてを手にしている」ものの筆頭だと思う。

「自分のハイヤーセルフとの通信を回復する」ということを強く意図すれば、必ず回復する。 「自分が自分のハイヤーセルフなんて、無理だ」などと否定しないことが大事だと思う。 必ずできる。 誰もが「つながったり、つながらなかったり」だと思うので、「つながらない状態が長い」ことを責めないで見守ってあげることが大事だと思う。

種に向かって「早く芽を出せ」などと「求めすぎる周波数」を浴びせると、余計に発芽が遅れるというのがあるらしい。 「欲しい欲しい」の周波数が、願望の実現を遠のかせるのである。 loosen up(ガチガチに握りしめている状態をゆるめる)ことが「すでに手にしている周波数」を使うコツになるらしい。


このように、「あなたはすでに、すべてを手にしている」というのが、「意識を外側へ向けるなかれ」の背景にある状況の第1なのだと思う。

「意識を外側へ向けるなかれ」について、私が強い違和感を覚える理由が2つある。

(1)「意識を外側へ向けるなかれ」は「マインド」を全否定することに直結しかねない、という点が1つだ。 少なくとも、「マインド」を全否定しているのだと誤解される恐れが多分にあると感じる。 「危険に対する警戒心」など、この次元の地球を生きていくうえで「マインド」の働きは、なくてはならぬものである。

(2)「意識を外側へ向けるなかれ」などとゆわれると、もちろん自分軸に基づいた状態で「愛や調和や感謝や敬意などなど」を背景としながら他者を思いやることまで否定された気分になってしまう。 ここにおいて、「それは誤解だ」「真意は別のところにある」「あなたの勉強不足」などと、「習う側」をジャッジすることは注意深く避けなければならないと思う。 予備知識なしに、初見で「意識を外側へ向けるなかれ」という表現を目にしたとき、その人は何を連想するのか?  そこを計算しないで「意識を外側へ向けるなかれ」という用語を使うことは、独善的・独りよがりにおちいっているように思う。 そう、スピリチュアリストには、独りよがりな部分があるんだよね。

※ユニバーサルデザインとか、ノーマライゼーションとか、そういう発想を、ここにも採り入れるのがふさわしいと思う。 「誰をも不快にさせない、中立的な表現で」「誰からも誤解されず、誰にでもわかる、明瞭で親切な表現で」といった、多方面への配慮が必要なのだと思う。 そのスピリチュアリストのセミナーに出たり、書籍を読んだりした人以外には理解できないであろう、そのスピリチュアリストの「個人言語」に近いテクニカル・タームについては、言い換える必要があろうかと思う。

※意味の通りやすい「冗長型」のテクニカル・ターム(専門用語)。 別途、グロサリー(用語集)をつくる必要はしょうじない。 初見でも、誤解が生まれにくい。 しかし、表現・記述が冗長になる。

※意味は通りづらいけれども短く簡潔な「短縮型」のテクニカル・ターム(専門用語)。 別途、グロサリー(用語集)をつくる必要がしょうじる。

※とくに「縄文の大調和の心」を世界へ発信していゆくとしたならば、 その発信の中で使われるテクニカル・タームが、「英語に訳すことが可能」であるという条件を満たしている必要があると思う。 スピリチュアルな情報の分量でいえば、英語圏の分量が圧倒的に多いのだと思う。 だから、英語圏の人たちに届かない情報発信は、いわば「無効・無益」なのだと思う。 つまり「そのテクニカル・タームを英訳したとき、意味が通りますか?」という質問にちゃんと「YES」と答えられないテクニカル・タームだったら、つくり変えないといけない。

※現代日本語は、基本的に、蘭学や英学から生まれた「和訳のための日本語」を土台としている。 つまりオランダ語や英語の文献を和訳する必要から、漢語による造語を大量におこない、体言(名詞類)以外の部分を口語体にした日本語が、現代日本語である。

※「多言語化されるコンテンツ」を前提とするならば、「英語に訳すことができる」という条件を満たすような日本語で記述する必要がある。 その必要性は「必須である」という絶対的なものである。 さらにいえば、Google翻訳のクセに合わせて、Google翻訳が誤訳をしないような日本語づかいをする。 人間がAIに最適化するかたちで文章を書くということ。 これが最も早い。 ということは、ある程度、英語を意識することのできる人がライターになる必要がある。 「横文字はどうも苦手」という感じの人は、この分野のライターには向かない。

※英訳不能な日本語で書いても、翻訳者に負担をかけるだけである。 「Google翻訳のクセに合わせて、Google翻訳が誤訳をしないような日本語づかい」をするのが面倒ならば、「多言語化されるコンテンツ」をつくるのは諦める必要がある。 それぐらい「機械翻訳に最適化された原語の記述」が「効率性」のキモを握っている。 つまり「Google翻訳が英訳しやすいような日本語で書いてください」ということになる。

※「英語圏に伝わらない日本語」を注意深く避けるか、「英語圏に伝わるように日本語の段階で言い換える」ということが強く求められているのだ。 「多言語化されるコンテンツ」においては、この「英訳可能な日本語しかダメ」という条件をしっかりと守らないかぎり、「細かい部分、肝心の部分で『伝わらない情報発信』」になりがち。 逆に、英訳可能ならば、「英語」から各国語に訳すことが可能になるので、世界へ情報を発信することができる。 「英語」が中間言語として機能するため、とりあえず英訳可能な日本語で記述しておけば、世界へ向けて簡単に発信できる。

※とくに大事なのがテクニカル・タームを英訳可能な日本語に置換しておくという下準備だと思う。 テクニカル・タームを英訳可能な日本語に直す過程で、「初学者・入門者にとって理解しづらい用語」を書き改める機会が訪れると思う。

※例えば、「造化三神」ではなく「宇宙創造の三神」や「創世の三神」などが適切であろう、ということなどなど。 どうして「造化」という表現を使うのかというと「古事記に載っている用語だから」という権威主義的な発想があるのだろうと思う。 そういうの、やめようよ、もう。 つまり、テクニカル・タームを策定するときは「宗教的に中立であること」「歴史の臭いを払拭すること」などが求められると思う。 結局、科学的な用語にしてしまうことが大事だと思う。 それは次元上昇によって宗教が消滅するからであるし、「各宗教でゆってることがおんなじだ」ということを見える化するためでもある。 数学や物理学や化学は、世界共通の言語になっている。 この3次元地球では、科学的な表現が「ニュートラルな表現」ということになると思う。 とにかく「その道の専門家たちが、それに慣れているから」という理由によって「初学者・入門者にとって理解しづらい用語」=「別途、グロサリー(用語集)をつくる必要がしょうじるような用語」が放置されてきたのだとしたら、それは改めるべきだろう。

※「初学者・入門者にとって理解しづらい用語」をジャッジした結果の語彙としてjargon(ジャーゴン)という言い回しがある。 ジャーゴンというのは、「その道の玄人さんだけに通じる専門用語」「排他的な専門用語」という悪口である。 スピリチュアルな世界には、ジャーゴンが多いように思う。 ジャーゴンがジャーゴンであるのは、「宗教的/歴史的な背景を引きずっている言葉づかいであること」が大きな原因だと思う。 つまり、すべてのテクニカル・タームから、宗教とか歴史の臭いをぜんぶそぎ落として、電磁気学や量子力学などといった科学的な言い回しに言い換えてしまえばいいのだ。

※以上のような整理・最適化の結果として「最も洗練されたかたち」が磨き出されてくるような気がする。

「意識を外側へ向けるなかれ」の真意その2|「外側」とは「他者の現実の中のデータ」であるから「意識を外側へ向けるなかれ」

マトリックスの構造として、たぶん、おそらく、わかんないけど、「他者の現実」と「自分の現実」は、見かけ上は合成されて境目が見えないようになっているけれども、実際には、境目をもっていて、「他者の現実」を深く参照すると、マズいことになるのだと思う。

そのマズいことというのは、自分軸がブレる、ズレるということだと思う。

「ひとりが気楽」で、他者から干渉されると、本能的に不快感を感じる。 その不快感は、「自分軸がブレる、ズレる」「自分のジオメトリーが狂う」ということを知らせるための不快感なのかもしれない。

つまり他者は放っておいてあげるのが愛だということになる。 その愛が究極的に高まっていくと「他者のことを放っておいて、自分のことだけに集中・専念する態度」になっていくのだと思う。 矢作直樹さんは、そのタイプに属するらしい。

もちろん、知らない情報を教えてあげることは大事だけれども、判断を強制しないことだよね。 「知らない情報を教えてあげることが大事」という部分がとびきり強いのが並木良和さんだと思う。 意識のカバー範囲が大きいのが並木良和さん。

いずれにしても、このあたりは、神聖幾何学などと密接に関係している可能性を私は感じている。

ジオメトリー(各要素の位置的な関係/かたちなど)、あるいは、アラインメント(各要素の位置的な関係・配列が正常であるありさま)などは、神聖幾何学の用語なのだと思う。

アセンションコードにも、ふつうの数値とともに、「角度」の単位である「ディグリーズ」の付いた数値が登場する。 アセンションコードを書いたり、聞いたりして、それが脳にインプットされると、電磁気学的なジオメトリー(かたち)が変わるらしい。 アセンションコードも、神聖幾何学に関係していると思う。

真実であるものは、すべて符合し合う。


現実は、個別のコンパートメント(列車などの「区切られた客室」)みたいになっているらしい。 いや、このことは確実ではないから、信じないでほしい。 けれども、そのように今のところ私は想像している。

例えば、マスコミが演出している現実は、マスコミにとっての現実にすぎない。 そちらへフォーカスしてしまうと、自分の観測点(原点)がズレてしまうので、自分の中の現実までズレてしまう。

並木良和さんのいう「ネガティブ:ポジティブ=49:51を満たす位置」=「ダイヤモンドの位置」というのは、自分の観測点(原点)として、最もふさわしい「ツボ」の位置なのだと思う。

「ダイヤモンドの位置」と「自分の観測点(原点)」とが一致した状態、つまり、ズレのない状態が「自分軸に立った状態」ということなのだろう。

「自分軸に立った状態」をキープしつつ、その自分軸からの視点で物事を捉え、その自分軸に基づいてあらゆる言動をとっていく。 これがたぶん、並木良和さんの「自分と一致する」という状態の内容なのではないかと想像している。

ズレを調整する営みを「キャリブレーションをとる」という。

フラットベッドスキャナだって、毎回、キューキューって自動で「キャリブレーション」を取り直す(この場合は位置のズレを修正する)んだよね。

カラーコレクション/カラーグレーディングをするためのPCモニターでは、モニター画面に専用のカメラ機材を取り付けて、カラーキャリブレーションを取り直すこともある。 モニターを、正しい色調に合わせ直すのがカラーキャリブレーション。

同様にして、いつも「ダイヤモンドの位置」と「自分の観測点(原点)」とが一致するように、キャリブレーションを取り直す。 ズレを修正する。 並木良和さんは、このことを、ものすごく重視している。

いや並木さんがゆってるから大事だとか、そういうことではなく、次元上昇というものが、電磁気的なジオメトリー、アラインメントによって、成功・不成功が決まるような事案だからだろうと思う。

それは神聖幾何学なども関係するであろう世界だと思う。

高次からの指令を受けて世界を飛び回っているスピリチュアリストたちが何をやっているのかというと、たぶんチンターマニ・ストーン(如意宝珠)を地中に埋め込んで、 電磁気的なグリッドをほんらいのかたちに整え直すということであるらしい。

チンターマニ・ストーン(如意宝珠)の埋設作業というのは、「マトリックス」を終了させるための電磁気的な環境づくりへ向けての仕込み作業なのかもしれない。

如意宝珠は、並木良和さんの瞑想ワークにも登場する、龍が手に握っている、あの不思議な珠(たま)のことでもある。

とにかく、この次元上昇プロジェクトの壮大さには、驚かされるばかりである。

それぞれが頑張って活躍している。 1人として、ムダな人はいない。 そのことがこの次元上昇プロジェクトの動きから感じ取れる。


宇宙は電磁気的なものである。 これは、エハン・デラヴィさんが昔から主張していたことであり、完全に真実だと思う。

そして、この「マトリックス」も電磁気的なものであるし、次元上昇も電磁気的なものである。

Neo Glimmerさんのアセンションコードも、電磁気的なジオメトリーを調整するための文字列と数値からなるコードである。

そしてチンターマニ・ストーンも埋設されている。

すべての条件が整ったとき、「イベント」と呼ばれる大転換がおこなわれるらしい。 そのタイミングはみなもとが決めることで、いつであるかはゆだねるしかないらしい。

その「イベント」へ向けて、みんなが準備に準備を重ねてきている。

その中に私たちの「統合」ワークも含まれている。

私たちは切り離された存在ではなく、「イベント」へ向けて、次元上昇へ向けて、互いに影響し合いながら、活動を続けている。

大団円(グランド・フィナーレ)へ向けて、みんなが頑張っている。

そのためには、好ましい活動を肯定し、そこに近づいて共振していき、その流れに乗っかっていくことが大事だと思う。

自分で頑張らないで、流れに身をゆだねることが大事であるようだ。


とにかく、「ダイヤモンドの位置」と「自分の観測点(原点)」とが一致したとき、「自分軸に立っている」=「自分と一致している」=「キャリブレーションが成功している」ということなのだろうと思う。

そして、私たちが生活していくとき、毎度・毎度「位置合わせをする」ことがとても大事だと思う。


どんな名演奏をするバンドでも、いつかバンドは解散する。 そういう運命にある。

それというのも、共同作業をやりすぎると、「自分軸がブレる、ズレる」「自分のジオメトリーが狂う」ということに耐えられなくなるのだと思う。

お互いが縛り合うようなコミュニティになると、そのコミュニティが「生きづらい空間」になってしまう。

そして、共同作業はその運命として、必ず「自分軸がブレる、ズレる」「自分のジオメトリーが狂う」という状況をもたらす。

だからこそ、私たちは「ゆるやかな連合体」であり続ける必要がある。

もちろん、臨時のチームを組んで、ある一定の期間は、共同作業をすることも必要になる。 それは避けられないことであり、必ず必要になることだと思う。

しかしそれが「常」であっては困る。 それは「一時的な状態」「アドホックな状態」「仮の状態」にとどめる必要がある。

いいかえれば、私たちは「てんでんこに生きる独立個人」であり続ける必要がある。

角度を変えていえば、馴れ合わない、近づきすぎない、節度をもった関係性でい続ける、といったようなことだと思う。

「意識を外側へ向けるなかれ」の真意その3|「自分で投影した動画とのインタラクションに没入する時期は過ぎた」ので「意識を外側へ向けるなかれ」

背景には価値判断の押し付けがあるのだと思う。

アセンションを素晴らしいものだと強調するために、 「3次元地球でのこれまでの日常生活」をバッサリと断罪してしまわぬようにしないといけない。

私もこのサイトで、バッサリやってしまっている部分がある。 本当に気をつけなければ。

すべての対象にかんして「大事にする」「敬意を払う」という感覚を忘れてはいけないよね、やっぱ。


「スピリチュアリズム」と「日常生活」は、「統合」されるべきだと思う。

現在は「スピリチュアリズム」と「日常生活」とが、ある意味で対立の中にあるけれども、本気で、「スピリチュアリズム」と「日常生活」の「統合」が大事だと思う。

そして「スピリチュアリスト/スピリチュアリズムへ傾倒している人々」と「日常生活を一所懸命におこなっている人々」は、「統合」されるべきだと思う。

実際には、私たちはみなもとを通じて、すでに「統合」されている存在であるらしい。

しかし「スピリチュアリズム」に傾倒している人々の中には、「日常生活そのもの」や「日常生活を一所懸命におこなっている人々」を「さげすみの目で見ている様子」がにじみ出ているようにも見えてしまうときがある。

これは、私の「統合」が足りないからというよりは、客観的な言葉として表出しているのだから、主観や捉え方とは別のところにも原因がちゃんとある。

例えば、「まだ眠っている人たち」とか、「古い地球の周波数」とか、やはり「上から目線」のような言い回しが「決まり文句」のように使われている。 それは、YouTube動画、あるいは、書籍、あるいは、ウェブサイトの中において。

もっと冷静で、慎重で、落ち着いた感じの雰囲気が、私は好きだ。

また個人的には、個人セッションやセミナーへの誘い込みの道具として、YouTubeやブログを利用している「職業スピリチュアリスト」にかんしては、拒絶感が強くなってしまった。

参加費が定額制というのは、よろしくないようで、随意のドネーション(お布施)にするのが、穏便なやり方みたいだね。 あるいは、支払いやすい低廉な参加費の設定だわね。


経緯をしっかりと説明することが大事だ。

私たちは地球に、いろいろな経験をするために転生した。

私たちが地球に転生した目的は、経験を通じての学び・成長のためである。

そして成長のプロセスの大きな中間地点として、アセンションというものがあるらしい。 高速道路でいう大きなサービスエリアだよね。 高速バスが必ず停車するであろう、談合坂とか、海老名とか、そういうサービスエリアが、今回のアセンションみたいだね。

そういう意味で、地球は学校のようなものである。 だから地球学校と呼ぶことにする。

地球学校は、学びの場であった。 しかし地球学校は廃校になることが決定し、現在、「学校としての地球」から「ふつうの惑星としての地球」に衣替えしているところだ。

「学校としての地球」を「3次元地球」「古い地球」と呼んだりする。 またこの「古い」という言い方が、反感を買う場合もあるんだけどね。

そして5次元の「新しい地球」のことを、「ニューアース(New Earth)」「テラ・ノヴァ(Terra Nova)」「テラ・ノバ(Terranova)」などと呼ぶらしい。

この「新しい地球」が「ふつうの惑星としての地球」であり、地球という惑星が、他の惑星と同じかたちに収まる。

これが「地球の次元上昇」であり、この「地球の次元上昇」にキープ・アップしていく(遅れずについていく)ことが、私たちに求められている。

人の都合も考えずに、迷惑な話だよね? 

だけれども、この太陽系が属している天の川銀河の回転周期が26000年ぐらいで、アセンションに適するタイミングが、この「銀河の回転周期に従属している」ので、仕方がないんだよね。

天体の運行の関係上、私たちの都合とは関係なしに、次元上昇しやすいタイミングが限定されている。

この「次元上昇しやすいタイミング」が、2018年から2020年の春分ぐらいまでの2年と少しの間に限定されているらしい。

これは天体の運行だから、仕方がない。

このように、天体という外側の事情に私たちがタイミングを合わせなければならないため、スピリチュアリストは「急ぎなさい」「早く目覚めなさい」という、「うるさいお母さん」のような言い方になってしまうんだよ。 それは、背景にやむを得ぬ事情があるから、そうなっちゃうんだよ。

他方で、「急ぎなさい」「早く目覚めなさい」という言い方にかんして、「上からゆわれてムカつく」という感情を抱いてしまうのも、私にはよく理解できる。

「眠りから目覚めよ」とかって、やっぱり、どこか小馬鹿にされたような感じがする面がある。

これは「寝ぼけやがって」「目を覚ましやがれ」とか、そういう言葉が日本にあるから、そういうことを感じてしまうのだと思う。

何か別の「穏便な言い回し」を考えないといけないよね。


この項の表題である「自分で投影した動画とのインタラクションに没入する」。

これについて注釈を加える。

現実というものは、自分が一週間から数日前に発していた周波数が物質化したものらしい。

物質化した「現実」というものは、私たちの周波数が投影された、動画コンテンツにすぎない。

といっても、五感を伴う精巧な動画コンテンツ(VRが大きく進化したヤツ)なので、それが「リアル世界」だと間違えてしまう。

つまり「現実」というのは、ショーウィンドウの中の世界、あるいは、水槽のガラスの向こう側の世界にすぎないのだ。

Lioness tries to eat baby at the zoo. - YouTube
WILD ANIMALS Trying To Attack Kids Through Glass At ZOO Compilation 2017 - YouTube

「現実」は、いじることは可能だけれども、実体はない。 「現実」は、自分が一週間から数日前に発していた周波数が物質化した結果でしかなく、信ずるに足らぬ紙芝居にすぎない。

さらに、紙芝居の1枚1枚には、つながりすらない。 私たちの脳が、紙芝居の「Sheet 001」と「Sheet 007」との間を、「勝手に作り上げた因果関係などのプロット(ストーリー)」「錯覚」などによって補間(interpollation/to interpollate)しているだけ。 このあたりを闇の勢力は完全に把握しているので、マスコミを通じて私たちを洗脳することができたのだ。

紙芝居の「Sheet 001」と「Sheet 007」は、隣り合って連続しているように見えるけれども、両者の関係性をでっち上げているのは、私たちの脳である。

紙芝居を見て一喜一憂し、さらには、紙芝居との間にインタラクション(相互作用)までおこなうようになる。 それが「現実」を生きるということだった。 そう、これまでは。

これまでは、「マインドが中心になって経験する低次元の現実」の側にカーソルがあったのだ。

これからは、「自分のハイヤーセルフとつながった状態で自分が経験する高次元の現実」の側にカーソルが移行する。

「自分で投影した動画とのインタラクションに没入する」ことを通じて「数多くの疑似体験」をする。 地球学校は、それを目的に設立されたんだと思う。

つまり地球学校は「多くの経験値を積む」ことが目的だったのだ。

しかし地球学校が廃校になるという決定がおこなわれた。

そこから「卒業モード」に切り替わっている。 ここに注意が必要。

現在は「卒業モード」に入っているため、かつては肯定されていた「自分で投影した動画とのインタラクションに没入する」ことが否定されている。

ここを見落とすと、自分の行動を否定された側は、「どうして?」と反発を覚えることになる。


スピリチュアリストの中には、目覚めていない状態を小馬鹿にするかのような発言をする人も、いないでもない。

例えば、「寝ぼけるな」「目を覚ませ」という罵倒の言葉がある。 これは「眠り」というものが、日本語の中では、悪い意味に解釈される傾向があるということを意味する。

「ブロック解除/統合」という用語を使う系統のスピリチュアリストたち(ニューエイジに分類される)が、配慮なしに、「眠り」という用語を乱発してきたように思う。

「あなたは眠っている」「目を覚ましなさい」とゆわれて、気持ちのいい人はいない。

「眠り」という用語を使うだけで、ゆわれた人に反発心が起こる。

それは「ゆわれた人がスピリチュアリズムをジャッジしている」のではないと思う。 「眠り」という用語そのものに、ある種のジャッジメントが含まれてしまっているから、その反発心には根拠があると思う。

「眠り」という用語は、けっしてニュートラルではない。

「眠り」という用語が、相手をちょっと小馬鹿にしたような雰囲気をもっている。

「眠り」という用語を使うの、やめませんか? 

「眠り」という用語、なんか腹立つんですけど。

「眠り」という言葉の選択がマズかったと、ふつうに思う。

例えば、当人が「釣りバカ」という言葉を使ったとしても、その「バカ」という言葉にネガティブな意味があるから、当人が悪意なく「釣りバカ」という用語を誰かに当てはめたとき、不快な思いをする人が必ず出てくると思う。

「寝ぼけるな」「目を覚ませ」という罵倒の言葉があるから、「眠り」という言葉そのものが、批判がましい響きを確実に有している。 この点に配慮する必要があったんだと思う。

だから「眠り」とか「覚醒」とかの用語を含む、すべてのコンテンツを、いったん廃棄して、ここから「内容の濃い、誰をも傷つけないコンテンツ」を急遽、つくっていく必要があるように感じる。


「眠り」という用語そのものに、いわば「相手を小馬鹿にしたようなコノテーション(含意)がある」というのに、 「ブロック解除/統合」という用語を使う系統のスピリチュアリストたち(ニューエイジに分類される)は、 その「眠り」という「配慮に欠ける用語」を乱発してきたように見える。

そのせいで、「スピリチュアリズム」と「日常生活を営む人たち」との間に、深い溝/ギャップ、必要のない分離を生んできたように思う。

「スピリチュアリスト」たちが「日常生活を営む人たち」をジャッジし、遠のけ、分離することをみずからおこなってきた。 遠目から見るとそんなふうな景色が見えてくる。

「スピリチュアリズム」の側が「眠り」という相手を傷つける用語を平気で使った結果、「日常生活を営む人たち」との間に必要のない分離をわざわざこしらえている側面がある。

酔っぱらいにたいして、「オマエは酔っぱらい」と断罪したら、反発を食らうだけになる。 「酔っぱらい」という言葉を使わないほうがいい。

同様に、「スピリチュアリズム」の側が「眠り」という相手を傷つける用語を使うのは、もう、やめたほうがいい。

もう状況が変わってきているので、「眠り」という用語を使った、過去の書籍、音声素材、映像素材などなどのコンテンツは、ぜんぶ廃棄してよいと思う。

そして、周波数が急上昇している現状に合わせた、「いまにふさわしいコンテンツ」をこの時点から作り始めるのが適切だと思う。

「眠り」という言葉による反発。 こんな小さなことで、アセンション計画がダメになるとしたら、これほど「つまらないこと」はないと思う。


スピリチュアリストたち、あるいは、スピリチュアリズムに傾倒した人々は、「この世をうまく生きられなかった人たち」で占められていることが多いと思う。

遠目から見ると、その恨み節のようなものが、「眠り」という用語にこめられているようにも見える。

だからこそ、この世をうまく生きられている人たちに「スピリチュアリズムは現実逃避だよ」とジャッジされてしまうのである。

そんなふうにして、お互いがジャッジし合って、分離を生んでいる。

その原因の1つが「眠り」という用語にあると思う。

スピリチュアリズムは、「眠りの状態を悪者にする」「マインドを悪者にする」「左脳を悪者にする」というジャッジメントを確実に積み重ねてきたように思う。

それはスピリチュアリズムが目指すはずの統合から、大きく乖離した結果をもたらしている。

私たちがこれまで経験してきた日常というものを、「眠り」という用語で断罪するのは、もうやめにしませんか? 


スピリチュアリストたちは、目醒めるのが当たり前で、目覚めないのは「ふつうでないこと」みたいに、決めつけていると思う。

これって、「勉強しろ」と強制してくる親・教師と同じ失敗を犯しているんだよね。

スピリチュアリストたちは、「自由だよ」といいながら、「目醒めるべきだ」という用語を使わないで、「目醒めるべきだ」という主張、押し付けをしているように見える。

「眠り」は悪いことで、「覚醒」「目醒め」はよいこと。 そんなジャッジメントが、スピリチュアリストの界隈には、確実にある。

このジャッジメントにより、「スピリチュアリストたちは、自分たちのほうが先に進んでいることを誇示しているだけ」と誤解されかねない状況にある。

これは「スピリチュアリストに偏見をもつ人たちが、スピリチュアリストをジャッジしている」という部分もあるし、「実際にスピリチュアリストがおごり高ぶっている部分を見抜いている」という部分もある。

これは、両方あるし、両方が混じり合っている。

とにかく、「自分は正しいことをしてきたので、いっさい変える必要はない」といって、突っ張ってしまうことだけは避けたほうがいいと思うよ、マジで。

正しさを背景に相手をジャッジしていませんか?

言葉以上に他者を傷つけるのが、人間の態度だと思う。

言葉としてはソレを使わなくても、態度でソレを表す人がいる。

相手にソレを感じさせておきながら、「それはあなたの思い過ごしだよ」という言い訳まで用意している周到さ。

じつに陰湿で卑怯だわ。

学校のイジメとかって、それじゃん? 

「イジメはなかった」ということにしたい。 そのゴールを見据えて、けっして「暴力」や「言葉の暴力」は使わないで、態度でハブったりする。

そういうのが、いちばんいじめられた側の心に響いちゃうんだよね。

あと会社で「誰か1人をやめさせようとする」とき、1人だけお茶をあげないとか、そういう陰湿なハブり方ってあるんだよ。

言葉でハッキリゆわないで「忖度(そんたく)」させるわけだよね。


言葉において、「politically correct|political correctness|表現の公正・中立さ」ということに注意しなければいけない理由も、そこにある。

話者の無知が原因で、話者にまったく他意がなくても、誰かを傷つけたり、誰かに罪悪感を抱かせたりすることもあるだろうと思う。


簡潔にいえば、「アセンションは正しい」という言葉を使わない巧妙なかたちで、態度で「アセンションは正しい」ということを主張しすぎているスピリチュアリストがいる。

それを見せられた人は、ある意味で、やる気を失っている。

そんな感じに見えるときがある。

politically correct|political correctness|表現の公正・中立さ

言葉の選択を誤ったために、ほんらいなら受け容れてもらえるであろう情報が、受け容れてもらえない。 そういう残念な結果を、事前に回避する方法がある。

それは、表現の公正・中立さに細心の注意を払うことである。

表現の公正・中立さにかんしては、私自身も大いに反省・注意するべき点である。


あらゆる語彙〔vocabulary〕には、コノテーション(connotation:含意、含み)がある。

「眠りから目覚めよ」とかゆわれると、「なんか腹立つ」くない? 

やっぱり、どこか小馬鹿にされたような感じがする。

これは「寝ぼけやがって」「目を覚ましやがれ」とか、そういう罵倒(ばとう)の言葉が日本にあるから、そういうことを感じてしまうのだと思う。

もちろん、「眠り」という言葉から、「寝ぼけやがって」「目を覚ましやがれ」などを連想する「信念体系」も「統合」して手放していくべきだとは思う。

それは大いに「統合」して、真意をしっかりと酌み取るようにしたほうがいい。

けれども、その一方で、わざわざ「眠り」という言葉を使って、ひとさまの神経を逆なでする必要もなかろうに、とも思う。

「あなたは眠っている」「眠りから覚めなさい」「覚醒しなさい」などという言葉づかいをしたら、「まだ目覚めていない人たち」「まだ眠っている人たち」に嫌われるにきまってんじゃん。

酔っぱらいを「酔っぱらい」よばわりするのは、それが事実であるにしても、反発を招くだけ。

どんな場合でも、言葉づかいには気をつけたほうがいい。

人を見て法を説けともゆうし。

人を見て言葉づかいを変えるべし、と思う。


私たちは「自分の感情にまつわる周波数を手放す」「統合」というものをしている。

この「統合」すべき対象には、2つの要素があると思う。

例えば、相手から傷つけられる言葉を浴びせられたとする。

自分が「統合」すべき対象の第一は、そういう現実を投影する周波数そのもの。 モヤモヤと心地よくない、そのモヤモヤを黒い鉄球や黒い鉄柱にして云々。

「統合」には、いろいろなやり方があるから、あとはご自身で補ってください。

そして第二は、「相手から傷つけられる言葉を浴びせられた」とき、「その言葉そのもの」あるいは「その言葉の背景にある周波数」を「統合」する必要がある。

結局、「そういうヒドい言葉」が自分の中にあるのだと思う。

いいかえれば、言葉づかいについての配慮が足りない。

いいかえれば、自分が使いがちな語彙〔ごい:vocabulary〕に、そもそも「トゲのある言葉」がたくさん含まれてしまっている。

「トゲのある言葉」について、「それをトゲだと感じるのはアナタの問題」「アナタが『統合』すればいいんじゃね?」という思い上がった人にはなりたくない。

客観的に「トゲのある言葉」というものはある。 それは主観とか、過去の経験とか、関係なしに、辞書的な定義として「トゲのある言葉」というものがあるんだよ。

「トゲのある言葉」をどうして使ってしまうのか? 

それは「自分がトゲの痛みを感じるセンサーの感度を低くしているから」だと思う。

いわゆる鈍感で無神経な状態におちいっている。

「言葉づかいについての配慮が足りない」という状態は、「自分がトゲの痛みを感じるセンサーの感度を低くしている状態」である。

自分が使う語彙について無自覚・無意識で、知らず知らずのうちに、誰かを傷つける言葉づかいをしているのではないか? 

そういう点検をしていくことで、ある種、大規模に「統合」を進める可能性があるように思う。


「敏感になる」と「傷つきやすくなる」。

この「傷つきやすくなる」ということを、「神経質」「神経質すぎる」というジャッジの言葉で萎縮させてはならない。

「敏感になる」と「傷つきやすくなる」のは当然で、この「敏感さ」は保持しておく必要がある。

意地でも敏感でいつづけよう。

自分が敏感でないから、無神経な言葉づかいになってしまい、それが相手を傷つけるし、自分をも傷つけるのだから。

そして、自分が過去に使ってきた「トゲのある言葉」を、「トゲのある周波数」とともに「統合」して手放していくことにした。

とにかく、相手を傷つけ、自分を傷つける最大の凶器が、言葉なのだということに気づいた。

自分が使ってしまいがちな語彙〔ごい:vocabulary〕に注目することで、自分のマインドにつくられた信念体系、つまり、特定の周波数を好んで使っている、その原因である信念体系を知るための一助になるのではないか? 

自分が使う言葉、とりわけ語彙をチェックして、「ネガティブな言葉づかいをしているかどうか」「表現の公正・中立さを保とうと努力しているかどうか」を振り返ったほうがいいと思う。

「統合」の対象は、「人間関係に関連した感情」が大半だと思う。

しかも、その「ある感情を発生させた人間関係にまつわる事案」には、「言葉」と「態度」という2つの要素が深く関係していることが大半だと思う。

自分が何かを感じ取ってしまう「言葉」と「態度」をリストアップしていき、それを類型に整理してみて、そこから「自分が使ってしまいがちな周波数」=「『統合』すべき対象」を探り出すこともできそうな感じがする。


語彙〔vocabulary〕そのものが特定の周波数をもっているように感じる。

言葉を発する人の意図(その背景にある周波数)が、大きな比重を占めているということは理解できる。

その一方で、「使われる語彙」によって、発言内容の周波数の大筋が決まってしまうようにも感じる。

「使われる語彙」が、そもそも「トゲを含んだ言葉」である場合、「相手の受け取り方」というふうに誤魔化すことはできないよ。 「トゲを含んだ言葉」を使った側の責任もあると思う。

イワントスルトコロを伝えるのに、わざわざその言葉を使わなくてもいいんじゃね? というのは、大いにあると思う。


LGBTの話題がこの世で大きく採り上げられているということは、「あらゆる偏見を手放していく必要がある」という「上」の意図があるのだろうと思う。

LGBTということで「性のあり方にまつわる固定観念や『常識』の押し付け」「性別にまつわる差別」「人種や民族にまつわる差別」「貧富にまつわる差別」「同和など出自にまつわる差別」など、あらゆる差別を「統合」する必要があるとも思う。

そういうとき、「politically correct|political correctness|表現の公正・中立さ」という考え方が大事になってくると思う。

そうすると、politically correctでない語彙〔ごい:vocabulary〕を自分で使わないように決めたり、辞書から消し去ったり、あるいは、語彙の定義を書き換えたりする必要も出てくると思う。

いつまで言葉を使うのかわからないけれども、言葉を使ってコミュニケーションをするかぎりは、politically correctであることに留意する必要があると、強く思う。

「覚醒」と「眠り」は相対的なもの

「カーソルを移行すること」を「覚醒」とゆっているだけ。 ただそんだけ。

―― マインド ハイヤーセルフ
演算する場所 ローカル スパコン
サーバー
心的態度 がんばる ゆだねる
現実 いまの
現実
ほんらいの
現実
次元の低い
現実
次元の高い
現実
カーソルが
マインドにある
覚醒 眠り
カーソルが
ハイヤーセルフにある
眠り 覚醒

「意識を外側へ向ける」ことをジャッジしない

「意識を外側へ向ける」という言い回しは、やめといたほうがいい。 この項目の主旨は、それである。

「意識を外側へ向ける」という言い回しは広範囲の意味をもつので確実に誤解を生む

スピリチュアルな世界には、「意識を外側へ向ける」ことをジャッジする風潮がある。

実際には、他の主体との調和/バランスをとるためには「意識を外側へ向ける」ことが必要だ。

例えば、自動車を運転するとき、前車との車間距離を意識したり、車線変更するときにミラーを確認したりする。 これは「意識を外側へ向ける」ことにほかならない。

こういう表現をすると、「そういう意味じゃなくて」などと、詳細説明を後付けにする人が大半だろう。

それは言い訳のように聞こえる。

そもそも、言葉をしっかりと定義せずに、講演などをおこなうから、たくさんの誤解を生んでしまうのだ。

それは、誤解を生むだけでなく、愛や調和や感謝を土台とする他者への配慮まで「意識を外側へ向けること」だと断罪されかねない土壌・雰囲気を生むことにつながる。

誤解のないように、冷静に慎重に、言葉を選んで説明する必要があろうかと思う。


経営的・営業的な側面からいえば、ライブをしないとスピリチュアリストとして暮らしていけない側面があるのだとは思う。

しかし、ある考え方やメソッドを伝える場合、書籍、ウェブサイト、音声コンテンツ、動画コンテンツなど、「時間をかけて作り込まれたコンテンツ」にしておくことが好ましいと思う。

ライブで早口でまくし立てられると、参加者は「認知する」「記憶する」「実践する」ということを同時におこなわなければならない。 これは参加者にとって、大きな負担である。

スピリチュアルなメソッドは、「時間をかけて作り込まれたコンテンツ」として提供されるのがありがたい。

「時間をかけて作り込まれたコンテンツ」だと、最初からしっかりと言葉の定義をして、誤解を生まないように配慮することができる。

こうした、冷静で地道なやり方をしないと、どこかで大きな落とし穴にはまると思う。

「外側に意識を向けるのではなく、内側に目を向けて」という言い方が反感を買う

スピリチュアリズムが世間から拒絶されている原因があるとしたら、「not A but B(AではなくてB)という構文」を使って「目覚めていない人たちを啓蒙する」という「態度が腹立つ」からだと思われる。

「外側に意識を向けるのではなく、内側に目を向けて」という言い方が反感を買うんだと思う。

反感を買うと同時に、言葉において「限定が甘い」「誤解をしょうじさせやすい」というのがあると思う。

例えば、中学3年生で部活に夢中の生徒に対して、「部活ではなく受験勉強」という言い方をするだけで、一気にやる気をなくすと思うよ。

「not A but B(AではなくてB)という構文」は、「相手の言動」や「相手そのもの」を否定することにつながる場合がある。

「not A but B(AではなくてB)という構文」は、少なくとも、そういうふうに誤解されやすいと思う。

「外側に意識を向けるのではなく、内側に目を向けて」という言い回しは、かなり省略的、簡略的なので、誤解されやすいよね。 「全体をゆっくりと丁寧に説明する」ということが、省略されている言い回しだと思う。

例えば、酔っぱらいに対して、「オイ、酔っぱらい! 水でも飲んで、頭冷やせ」とかゆったら、酔っぱらいが怒り出すだろ? 

それと同じことを、スピリチュアリズムが世間に対しておこなっている部分があるという感じがする。

いま転生してきている人たちは、地球学校で学ぶために、高度に文明が発達した星々から、わざわざこの地球にやってきた、立派な人たちなんだよね。

立派な人たちに対して、赤ちゃん扱いで「目覚めていない人たちを啓蒙する」という態度で接されると、立派な人たちも、カチンとか、ムカッとかくるでしょ? 当然。

これはマインドの働きといえば、そうなのだけれども、立派な人たちだから「自分でちゃんとできる」という自負があるんだよ。

自負がある人に、「『私が啓蒙してやんよ』みたいな雰囲気』、あるいは、「啓蒙してやる」の色合いを弱めるために「軽佻浮薄なヘラヘラした雰囲気」で来られると、立派な人たちも、カチンとか、ムカッとかくるでしょ? 当然。

スピリチュアリズムの人たちって、「自分軸だから」ということを全面に押し出しすぎて、世間に「腹立つ」とか思われていることに配慮ができていないと思う。

自分軸からはずれて、迎合するべきだという意味ではない。

自分軸は堅持したまま、「必要な場面において、外側に意識を向ける」ことも、とても大事だという考えだね、私自身は。

もちろん、どんなに配慮したって、アンチは生まれてくる。 しかし、発言者のちょっとした「無配慮な認識」が露見して、炎上することもあるだろうと思う。 そうすると、スピリチュアリズムそのものに対する信頼が損なわれてしまうと思う。

そもそも「いつ目醒めるか」というのは、それぞれの魂のハイヤーセルフ〔higher self〕がしっかりとコントロールしている。 「早すぎてもいけないし、遅すぎてもいけない」というのが事情としてあるのだと思う。 わからない部分は、信頼して、ゆだねておくことが大事だと思う。

「没入していた映画」から抜け出して、素の自分に戻る

「自分で投影した動画とのインタラクションに没入する時期は過ぎた」というのが「意識を外側へ向けるなかれ」の真意だと思う。

いわゆる「覚醒」「目醒め」とは、「没入していた映画」から抜け出して、素の自分に戻ることを意味する。

「自分で投影した動画」は、自分の周波数を確認するための「観測用映像」としてだけ使うことにして、ひたすら自分の周波数の整理をしていく。

自分の周波数の整理というのは、大天使などにお願いして、「自分が握りしめている周波数を体験させてください」とお願いするのだと思う。

私が知っている大天使は、ミカエル、セント・ジャーメイン、ジョフィエル。 そうした大天使たちに「自分が握りしめている周波数を体験させてください」とお願いする。

その結果として、悲しみ、落ち込み、怒り、無価値感などの感情が出てくる。

出てきたら、大天使などに感謝を述べて、自分のスタイルに合った「統合」ワークをする。

セント・ジャーメインのバイオレット・フレームで処理してもらうのも、素晴らしいやり方の1つだと思う。

前世・今世・来世|前生・今生・後生|過去世・未来世|過去生・未来生

―― 生まれる前の生涯(たち)
※直前の一生涯の含みが多いかも。
この一生 死んだ後の生涯(たち)
※直後の一生涯の含みが多いかも。
おもに
仏教用語
ぜんしょう
前生
こんじょう
今生
※ややまれ
ごしょう
後生
※まれ
らいしょう
来生
※ややまれ
一般用語かつ
仏教用語
ぜんせ
前世
こんせ
今世
らいせ
来世
―― 生まれる前の生涯たち(複数形)
のニュアンスが強い?
―― 死んだ後の生涯たち(複数形)
のニュアンスが強い?
おもに
仏教用語
バシャール
かこしょう
過去生
※ややまれ
みらいしょう
未来生
※バシャールの訳文でよく使う。
※まれ
一般用語かつ
仏教用語
かこせ
過去世
みらいせ
未来世

ソース

The Great Central Sun

The Great Central Sun is a Source and a Center of the All-Pervading Presence of the Great “I AM”. It is a Point of Integration of the Spirit/Matter Cosmos, and an Central Concentration of God Consciousness and the release of Light and Life and Love to all creation. It is a Nucleus, Heart Center, or White Fire Core of the Cosmos. (The God Star Sirius is a Focus of the Great Central Sun in our sector of the Galaxy.)

グレートセントラルサン

グレートセントラルサンは、「ソース」であり、宇宙にあまねく広がっている存在である「グレート I AM」の中心でもある。 グレートセントラルサンは精神宇宙と物質宇宙とが統合されている点であり、神の意識が集中する中心であり、すべての被創造物に対して光と生命とを放出する存在である。 グレートセントラルサンは、核であり、ハートセンターであり、そして宇宙の白い炎の核心部分である。 (神なる星シリウスは、銀河系における私たちのセクターの中での「グレートセントラルサンの焦点」である。)

アファメーション(affirmation)|確言

自分が望む現実を確実につくるために、とりわけ声に出して「そうなりました」などと「過去形」「完了形」で結果を言語として確定させるおこない。

インテンション(intention)|意図(いと)

動詞はインテンド(intend)。

「そうするぞ!」と、おもに心で強く思うこと。

イントゥイション(intuition)|直感

アセンデドマスター、エンジェル、ハイヤーセルフなどからの通信を受信するおこない。

インヴォケーション(invocation)|祈り

結果を強く思念する、結果を強く確言するなどして、大きな結果を得るための活動。

13チャクラの名称|工事中

13 Stellar Gateway Chakra

Stellar:恒星
Gateway:出入り口

12 Soul Star Chakra|ソウル・スター・チャクラ

ハイヤーセルフとつながる! 8番目のソウルスターチャクラについて | メタフィジックス通信

11 Crown Chakra|Sahasrara Chakra|sahasrāra(サハスラーラ)

10 Soma Chakra

09 Third Eye Chakra|Ajna Chakra|ājñā-cakra(アージュニャー・チャクラ)

08 Lalana Chakra|Talu Chakra

07 Throat Chakra|Vishudda Chakra|viśuddha-cakra(ヴィシュッダ・チャクラ)

06 Higher Heart Chakra|Thymus Chakra

05 Heart Chakra|Anahata Chakra|anāhata-cakra(アナーハタ・チャクラ)

04 Solar Plexus Chakra|Navel Chakra|Manipura Chakra|maņipūra-cakra(マニプーラ・チャクラ)

Solar Plexus Chakra:ソーラー・プレクサス・チャクラ|太陽神経叢(たいようしんけいそう)のチャクラ
= Navel Chakra:ネーヴォル・チャクラ|ヘソのチャクラ
= Manipura Chakra:マニプーラ・チャクラ

Naval:ヘソ

03 Sacral Chakra|Svadhisthana Chakra|svādhişţhāna-cakra(スワーディシュターナ・チャクラ)

Sacral:仙骨

仙骨 - Google 検索

02 Root Chakra|Base Chakra|Muladhara Chakra|mūlādhāra-cakra(ムーラーダーラ・チャクラ)

01 Earth Star Chakra

 
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