[もくじ]を見るor閉じる

[洗脳を通じて【内発的ではない、自分には適合しないゴール地点を】選ばされている]のかもしれない、と自分の人生をチェックし直せ! 

カラスが、[クジャクのオスの羽根]の美しさをうらやましがっていた、としましょう。

そのカラスが[クジャクのオスの羽根]をカラスが自分の羽根に付け羽根したとしても、それは本物にはなりません。

[できるだけ、内発的であること]を基本に生きていくことが、自分の魂・意識に根ざした人生を展開する道でしょう。

私が感じたことは、内発的である。

私が直感したことは、内発的である。

私が発見したことは、内発的である。

私が思いついたことは、内発的である。

私が決意したことは、内発的である。

そのように、私発〔わたしはつ〕のものでなければ、自分という大地に根ざした大樹には育たないのです。

借り物では、あまり大きく育たないわけです。

借り物では、枯れることも多いのです。

知識や習慣などを得ても、それが単なる模倣であっては、[付け羽根]なので根付かないんですね。

ここでは、[試験のためにする勉強]は、それが本当の意味で身につかない、というようなことを述べているわけです。

何事かに取り組み、それを実践している過程の中で、必要に迫られて〔心の底から追い求めて〕得た知識は、使える知識になります。

それは、私たちの意識に[対象を追い求める気持ち][【知りたい・行きたい・得たい】といった【ゆかし】【まほし】の感情]つまり[負圧]が起こったときに、本物の学びが起こるのであるから、学びのタイミングが来るまでは、無理をして学ばないことです。

腹が減っていないのにメシを食うとビチグソが出るように、学びたくないものを学んだとしても、せいぜいビチグソが出るぐらいのことで、身にならないわけです。 そういうのは、[インチキの学び]なんですよ。

学ぶが勝ち

私たちが、人生という旅路をたどる、その目的は、その旅の過程で学び取る一つ一つの知恵〔拾ったドングリ〕なんですよ。

目的地に至るまでの過程で、とれだけ多くの知恵を得たのか。 いわば、道すがら、どれだけ多くのドングリを拾ってカゴをいっぱいにしたのか。 そのドングリこそが、人生の宝なのですね。

自分がどのような経路をたどって、その目的地にたどり着いたのか? 

あるいは、たどり着かなかったのか? 

その経路、つまり道筋・軌跡こそが大事なのであって、目的地はそんなに大事ではないし、目的地に到達しなくても、軌跡を描いたことそのものが大切なのですよ。

目的地に到達した〔成功した・結果が出せた〕とか、目的地に到達しなかった〔失敗した・結果が出せなかった〕といったことは、本質的ではないのです。

実際の旅においても、都会・自然・観光地などといった、目的地がいちばん大切なのではありません。

[どこへ行くか]ではなく、[誰と行くか][何の乗り物で行くか][その相手と、どのような体験を共有したか][その相手と、どのような会話を共有したか]などなど。

[どこへ行くか]ではなく、[旅に触発された自分が、何を感じ、どう思い、何を考えたのか][旅を終えた自分が、旅を通じて、どれだけ成長・進化したのか]などなど。

そういったものが、旅なのです。

闇側が私たちにかけた洗脳のうち、最も私たちが先に解くべき洗脳は、[比較に基づく優位・劣位で自分の幸不幸を決定する〔外的指標による自己の幸福決定〕]であり、それに準じて優先的に解くべき洗脳は、[結果だけを大切にする生き方]です。

[結果のために頑張る]という、常に準備期間のための人生を送ること、いいかえれば、その瞬間を楽しさや輝きで満たす生き方を、私たちは闇側から奪われてきたのです。

その状態から出るのはカンタンです。

闇側がつくったシステムの外側に出て、その外側世界で、自分が歓喜〔joy〕を以て受け容れることができる分野を探し出し、その分野に打ち込んでいるとき、あなたは幸福に満たされているでしょう。

[何クソ]と自分を奮い立たせて立ち向かい、乗り越えてきた人は、必ず途中でその道を断念する運命です。

それは、弱くて駄目な自分自身に復讐するために、あるいは、弱くて駄目な自分自身を嘲り笑ったアイツに復讐するために頑張った結果として、例えば、合格したり、例えば、社会的な成功を遂げたり、例えば、大金を手にしたとしても、復讐相手である[弱くて駄目な自分自身][弱くて駄目な自分自身を嘲り笑ったアイツ]の影が、より大きくなって襲ってくるだけだからです。

つまりそれは、自分の人生を怨念によって汚しながら人生を生きてきたということ、自分自身の人生を呪った、ということなのです。

自分自身で自分に呪いをかけたのであるから、エネルギー切れ、息切れをしてしまう、というのが道理です。

頑張りすぎた? 

いえいえ、頑張る方向性・頑張るやり方を完全に間違えているのです。

過程・軌跡こそが大切であり、目標は二の次です。

このことを理解すれば、自分が歓喜〔joy〕を以て受け容れることができる分野を探し出し、その分野に打ち込む人生でなければ、本当に実のある人生にはならない、ということが理解できるでしょう。

[何クソ]と自分を奮い立たせて立ち向かった人で、その道の達人になった人を、私は知りません。

[弱点を克服してきた][困難を乗り越えてきた][壁を乗り越えてきた]と称する人は、自分の人生を自慢したがります。 しかし、その割に、その人は達人の域には到達していないように見えるんです。 そして、そのような人は、必ず負のオーラを身にまとい、それとともに、ある種の増上慢におちいることが多いように見えます。

そういう人は、[人生モデル]の打ち立て方が、根本的に間違っているのでしょうね、たぶん。

そのことをしているだけで、楽しくて、嬉しくて、夢中になって、充実していて、何ともいえない快感がある。

そのような道を辿っているうちに、知らぬ間に達人になってしまっている。

これこそが、本当の道、真実の道です。

歓喜〔joy〕を根本としなければ、千年王国を建設することはできないと思います。

弱点の克服・修正、あるいは、困難の乗り越えを通じて、劇的によくなったためしがない、と私は今のところ思っています。

弱点の克服・修正、あるいは、困難の乗り越えは、たしかに人間を成長・進化させる面はあろうけれども、劇的によくなり、努力感なしに達人になってしまうのは、例外なく歓喜〔joy〕を根本としてその道に打ち込んでいる人です。

長所を徹底的に伸ばすことによって、般化によって、弱点が知らぬ間に改善されている。

これこそが、本当の道、真実の道です。

結局、これまでの[外界から押しつけられた進路・目標・人生]を丸ごと捨て去って、[内発的に選び取った進路・目標・人生]を選択する道へと、不連続的な切り替えを行なうことです。

端的にいえば、これまでの[会社や学校や家庭や人間関係]を、やめちまう。

そして、いったん孤独になって、自分のこれまでを切り捨て、自分のこれからを考える生活に入る。

そうした生活をある程度続けたら、自分が[内発的に選び取った進路・目標・人生]へ向けて、仲間を新たに見つける道に入るのです。

コロナワクチン接種を受けて、たとえ半死半生の状態に至ったとしても、たとえ死亡したとしても、そこに学び取る何かがあれば、その体験は宝物となる。

どうせ死後は、目覚めて、[ああ、恐ろしい夢だった]と回想するだけなのです。

コロナワクチン接種で死亡した人は、不幸なのか? 敗者なのか? 

けっして、不幸でも敗者でもない。

亡くなる人は、学び取った大きな宝物をたずさえて、あの世に帰るだけのことです。

大きな学びを得た、実り多い人生であったと、自分の人生に高得点をつけるのが、愛に基づく行為です。

愛というものは、自分にこそ向けるべきものであって、自分と相手を同じように愛するのだけれども、まず自己を愛せよ、ということです。

愛してもらうために、誰かを愛する? 

それが間違いなんだよ。

自分を愛する第一の人は、自分自身以外にない。

自分を最も大切にしてこそ、私たちの新しい地球が、素晴らしい地球になるのです。

そして、たとえ今回、コロナワクチン接種で死亡したとしても、あの世での生活があるし、また志願して地球に生まれ変わるチャンスもあろうかと思います。

死というものは、けっして、[これで終わり]という残念なものではありません。

あの世では、瞬間移動ができるなど、ものすごく自由らしいですよ。 ですから、あの世のほうが、活動しやすいらしいです。

あの世は、いいところらしいから、楽しみにしておきましょう。 ほくほく。