「誰かを助けたい、癒やしたい」はエゴであるらしい

『目覚めへのパスポート』のp.88に「誰かを助けたい、癒やしたい」という思いによって、助けられる人や癒やされる人を生み出してしまう、ということが書かれています。

この部分に、私が「しつけ・指導の好きな先生・指導者」に対して感じた違和感の本質が書いてありました。

リーダーというものも、結局、「誰かを助けたい、癒やしたい」というエゴから生まれるわけでしょう。

リーダーが生まれると、リーダーの取り巻きという、支配される者たちが生じてきます。

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学校教育がおこなう洗脳の本質は「勉学の序列(成績)」と「スポーツの序列(成績)」の観念の植え付け

小学生の生き生きした感じ。

小学生ののびのびした感じ。

この感じが失われるのは、中学生になって、部活動を通じて、「先輩・後輩の観念」が植え付けられる頃からかもしれない。

そして高校受験。

高校受験というのは、中学時代の内申点を主だった根拠として、奴隷である人間を等級分けする仕組み。

つまり「アホとカシコの選別」が、高校受験から始まる。

ここで多くの子供たちは、根性がねじ曲がってしまう。

つまり「比較され、競争させられ、等級付けされる」ことによって「序列の中に組み込まれる」んだよね、高校受験で。

だいたい、この高校受験の頃から「大人社会」=「奴隷社会」の「序列を基調とするしきたり」の「いやらしさ」に対して、強い拒絶反応を見せる子供が、一部に出てくる。 それは健全な拒絶反応だ。

大人社会は、どうやら「先輩・後輩の観念」=「上位・下位の序列の観念」で成り立っているらしい。

結局、世の中は「イヌ・サルの遺伝子」=「比較・競争・序列の遺伝子」に基づいている。

世の中が、このように「野蛮で未開の原理」に基づいていることに、子供たちは落胆し、震撼する。 それが自然な反応というものだ。

そして「野蛮で未開の原理」に適応しやすい人たちが、世の中の主流をなしている。

そこに溶け込めない「魂の清潔さを保った人種」は、「社会不適合者」として排除されるような感じになっている、この世の中のシステムとして。

いいかえれば、この世の中に適応している人間は、「イヌ・サルの遺伝子」=「比較・競争・序列の遺伝子」に基づく「野蛮で未開の原理」に適応しやすい、いわば「野蛮で未開の人間」だということに気づくべきだ。

「野蛮で未開の原理」というのは、知的レベルに関係ないらしい。

例えば、システム開発の業界は、どちらかというとブラックな業界だけれども、そこの労働者の知的レベルは高い部類。

そのシステム開発の業界の中でも、「イヌ・サルの遺伝子」=「比較・競争・序列の遺伝子」を全開にして「自己承認欲求」や「出世欲」を丸出しにする「モーレツ社員」がいるらしい。

彼らが職場を主導するようになると、それについて行けない人たちは、職場を去ることになる。

つまり「モーレツ社員」によって「野蛮で未開の原理」が「職場の原理」になると、それについて行けない人たちは、職場を去ることになる。

これはマッキンゼーなどのコンサルでも同様らしく、多くの新入社員は、マッキンゼーをやめていくらしい。

最重要ポイント|好きで没頭する

結局、人間が心を病んでしまうのは、「好きでそのことに没頭していない」という点だ。

同級生に打ち勝つために医学部を志望し、医学部に入ったけれども、医療は好きではない。

そういう人は、「生命や生化学や医療そのものに興味と強いパッションをもっている学生」の「熱量」についてゆけず、医学部を中退する。

勿体ない? 

いや、医者は実際には3K労働者だから、本気でその世界が好きでないと、精神をやられる。

マッキンゼーや電通といった、「キチガイのように働く会社」に就職して、精神的に追い詰められる人もいるだろう。

どこでボタンを掛け違ったのか? 

「自分を立派に見せるための就職先としてマッキンゼーや電通を選んだから」だろうと思う。

大事な点は、寝食を忘れて没頭できる分野を見つけて、「年収」などのこざかしい「計算」をせずに、その分野を楽しみ尽くすことだと思う。

「他者に見せるために生きる」から、狂ってくるのだ。

周囲を見ないようにして、「自分そのものを生きること」に徹する。 自分の平衡感覚を最重要の指標として生きる。 それによって「振り回されずに生きる」ことが可能になると思う。

「成長は続けているけれども、しかしその成長が、その人の内側から出てきた意欲や方針に基づいている」ということが大事。 その人が内的な「発火点」から自己成長を続けているのであれば、他者が干渉する筋合いのものではない。

問題であり、世の中の害悪となるのは、成長を止めている人。

「自分が頑迷固陋の状態におちいっている人」は「振り回されずに生きている」と自分自身を誤認していることが多い。 「何年たっても進歩のない人」だとしたら、このタイプだと見て間違いないと思う。

いいかえれば、学びと変容を止めている人。

こういう人が世の中の多くを占めると、世の中が停滞する。

これが「老害」の本質。

また「老害」のほかに「若害」もある。

若くて未熟な参加者が増えると「客層が悪くなる」「民度が低下する」などの弊害が起こりがち。

例えば、渋谷という街は民度が低い。

独裁者がマッチだとすれば愚民は爆薬

「独裁制の成立」という「爆発状態」は、「独裁者というマッチ」で「愚民という爆薬」に火を付けることによって起こされる状態。

マッチと爆薬とを考えたとき、どちらが罪深いか?  当然、爆薬であろう。

つまり独裁制は「愚民という寒天培地・培養土」の上にしか成立しない。 悪いのは「愚民という寒天培地・培養土」。

大衆がじゅうぶんに賢ければ、安倍のような独裁者は出てこない。 そもそも、安倍晋三の選挙区である山口県第4区の有権者は、何をやってんだよ。 それから、学会・教会も加担したムサシの集計システムによる票数の改ざんを、いい加減、やめさせないと。

沖縄では、学会が公明党から離れている。 だから沖縄県知事選でデニー氏が当選できた。 公明党に利用されてきたんだよ、学会は。

選挙地盤を「世襲のようにして世代間で引き継ぐことができる選挙システム」そのものがおかしい。

世襲とは私物化にほかならない。 宇宙はどこもかしこも、公共物であり、あくまでも借り物なのである。 だから「私物化」が横行した途端に、そこは宇宙のエネルギーがまともに流れなくなる。 したがって、「私物化」の行く末は、破綻(はたん)である。

選挙区制度をなくし、すべて全国区で票数を比べればいいんだよ。


また「独裁者」ですら「演者」にすぎず、陰で「独裁者」の振り付けをしている「演出家」、例えば、電通だのCIAだのKGBだのがいたのだということを知っておく必要がある。

そしてマスコミが流す洗脳情報を真に受けた結果、愚民は振り回される。

「演者にすぎない独裁者」の歓心を買おうと進んで殺戮をおこなう。

「演者にすぎない独裁者」が失脚目前となれば、オフィスに飾っていた独裁者の写真をゴミ箱に捨てる。

電通だのCIAだのKGBだのの「作家」の書いたシナリオ通りに動かされる。


問題の本質は、愚民の愚かさにある。

愚かさとは、爆発する性質をいう。

つまり独裁制がまかり通るのは、独裁者のウラに存在する、シナリオライターの存在を見抜くことのできない、愚民の愚かさに、その大きな原因があるのだ。

「愚民という主役」がいなければ、「独裁者という脇役」は引き立たない。

「愚民こそが独裁制の主役だ」という現実を受け止める必要がある。


現状に対して、言い訳・反撃などの抵抗を一切おこなわず、素直に受容することこそが、現状打開と改善・発展への最短ルートである。

このように「現状受容」をおこなうことが、何よりも大事なのである。

例えば、ひき逃げ事件を起こす人は現状受容能力が不足している。

小者ほど言い訳・反撃などの抵抗をする。


安倍独裁政権が存続している原因は、私たちの愚かさにある。

マスコミの裏側を見抜く目を持とう。

そして「誤った命令には従わない勇気」を持とう。

「リーダー格」も「子分たち」も、徒党を組んでいるかぎり、ともに成長できない

脇役がいなければ主役は成立しない。

そして「リーダー格」の人間は、どこへ行っても「子分たち」を集めようとする。 「イヌ・サルの遺伝子」が活性化されている人間は、いつでも、どこででも、これをやりたがる。

「イヌ・サルの遺伝子」の影響に基づいて、相手を子分にしたいからマウンティングをする。 このマウンティングに暴力が加わると、最終的には戦争になる。 報復の連鎖となる。

例えば、スポーツの世界のパワハラ、警察・消防・自衛隊・海上保安庁などの世界のパワハラ、ブラック企業でのパワハラなどなどを考えてみる。

「先輩から後輩へ」という方向性で、「抑圧・暴言・暴力」といった「ハラスメントの波」がドミノ倒しのように連鎖していく。

このように「DQNの世界」や「スポーツの世界」や「警察・消防・自衛隊・海上保安庁など、実力・暴力を行使する系統の公務員の世界」や「ヤクザの世界」では、 「封建主義的な上意下達主義」と「上位から下位へ向けてのハラスメントの連鎖」を土台として、組織構成がなされている。

しかもこの組織というものは、必ず敵対勢力を想定している。 警察なら犯人、消防なら火災等、自衛隊なら敵国、海上保安庁なら敵船など、必ず「敵対勢力」(opponent)を想定している。

そもそも、どうして組織をつくるのか?  それは「敵対勢力」(opponent)との「戦争」へ向けて、である。

また逆に、組織をつくると、必ずや「敵対勢力」(opponent)を探して「戦争」がしたくなる。

その理由は、組織というものは、リーダー格の人間がもつ「個人エゴ」を強く反映している点にある。

そして「個人エゴ」と「組織エゴ」は、ともに相似形の関係。

「個人エゴ」を「拡大投影」=「マクロ化」したものが「組織エゴ」ということになる。

そのエゴとは、「イヌ・サルの遺伝子」=「比較・競争・序列の遺伝子」の投影である。

つまり「組織内の序列形成」にも「組織 vs 組織の序列形成」にも、すべて「イヌ・サルの遺伝子」=「比較・競争・序列の遺伝子」の性質が投影されている。

その仕組みがフラクタルになり、世の中全体が「個人エゴ」を「拡大投影」=「マクロ化」したフラクタル構造になっている点。

これが「住みにくい世の中」の本質なのだと思う。

「リーダー格」の人間は、周囲の人間を「自分を主人公とする人生劇場の脇役」にしてしまう。

それは、たいへん危険なことで、「リーダー格の人生劇場の脇役にされた子分たち」は「自分そのものを生きること」が許されなくなってしまう。

これは、軍隊でも、企業でも、部活動でも、バンド活動でも、家族でも、まったく同じこと。

徒党を組むとき、その徒党の支配者(リーダー格)のエゴのために「脇役にされた子分たち」が利用されることになる。

この支配者(リーダー格)こそが、プチ独裁者なのだ。

イジメにおいても、多くの場合、「その徒党の支配者(リーダー格)」が主犯格になっており、「主犯格の暴力」が「子分たち」という倍力装置によって拡大投影される。

集団暴力、集団リンチ、集団レイプなどは、多くの場合、「主犯格の暴力」が拡大コピーされた結果として発生するのだろう。

集団的犯罪も、主犯格というよりは、「主犯格の暴力」を拡大コピーする「子分たち」に焦点を当てて考えると問題解決につながりやすい。

つまり「子分たち」の「民度」が十分に高ければ、集団暴力、集団リンチ、集団レイプなどは、発生しない。

それでは「民度」とは何かといったら、「集団としての波動レベル(振動数=周波数)」だと思う。

独りではおこなえない犯罪行為を集団でおこなってしまうのは、「イヌ・サルの遺伝子」=「比較・競争・序列の遺伝子」を活性化しているからだと思う。 小学生の言い訳によくある、「釣られてやってしまいました」というもの。

「釣られない人」が増えるほど、「民度」つまり「波動レベル(振動数=周波数)」は上がっているのだと思う。

それから現象を心で映像化することで、現象を起こしているのだという原理をよく知り、「映像化によって現象を変える」という技術を磨く必要がある。

好ましくない現象が起こるのは、「ビジュアライズ(映像化する)方法」において、何らかの不具合があるから。

「現象の発生」を無意識のまま放置していると、誰かの思惑による現象が起こり、その現象に巻き込まれてしまう。

私たちがこの地球に転生する前から、地球は存在している。

ということは「地球が存在する」という現象は、少なくとも、私たち以外の大きなものによるビジュアライゼーション(映像化)の結果と思われる。

つまり、私たちのビジュアライゼーション(映像化)が及ぶ範囲やレベルと、そうでない範囲やレベルがありそう。

しかし、私たちのビジュアライゼーション(映像化)が及ぶ範囲やレベルについては、私たちの責任範疇。

この責任範疇だけは、しっかりと「現象を整える」ことが大事だと思う。

それには、「極度に波動レベル(振動数=周波数)の低い人の一時的な隔離」も必要だろうと思う。


人生の目的は明快であり、それは「自分そのものを生きること」しかない。

「支配者(リーダー格)に付き従う子分たち」という構造の中では、おのおのが「自分そのものを生きること」が達成されず、おのおのの人生がうまくいかない。

チーム形成をするかぎりにおいては、「リーダーとフォロワー」は必ず「役割分担」として必要になる。

問題なのは「リーダー役の固定化」である。 そこには「交代」「循環」という概念がない。

「宇宙は循環によって成り立っている」というのは、法則として、あると思う。 だから循環しないものは、うまく機能しないと、私は感じている。

後に述べるように、「(コンビの場合)どちらが主役だかわからない」「(チームの場合)誰が主役だかわからない」というのが理想。

つまり球体がゴロゴロ転がっていくとき、球体の最も高い点は、時々刻々と移り変わってゆく。 そのようにして、「その瞬間に私たちが直面する事態について、最もその分野を得意とする人が臨時のリーダーになる」というのが理想。

結局、事案が変われば、リーダーがコロコロ変わってゆく。 もちろん、フォロワー(メンバー)も、適宜入れ替わっていく。

対象となる事案のジャンルによって、そのことを最も知悉(ちしつ)している人が、臨時のリーダーとなり、問題が解決できた時点で、リーダーを解任される。 すべてのチームが「アドホックなチーム」=「目的の限定された臨時チーム」である状態。 そういうのが、健全ではないか? ということです。

「リーダー役の固定化」の最たるものが権力者の世襲制である。

権力者の世襲制は、「序列の固定化」を生み、それが社会の生命力・活性を奪う。

例えば、麻生・安倍という売国奴の政権を、何年続けるんだよ。

もちろん、最も適任である人たちが、たまたま同じ血統から出ることを否定するつもりはない。

他方で、無能な2代目・3代目が出るような世襲制は否定されるべきだ。

例えば、ブッシュ・ジュニアは無能だし、安倍晋三も無能だ。

どうして無能なのに大統領や首相になることができたのか? 

現在の大統領や首相が、電通だのCIAだのKGBだのがこしらえた台本を演じる「演者としてのリーダー」にすぎないからだ。

「闇の勢力が操りやすいバカ」しか大統領や首相になることができない時代が続いてきた。

しかしアメリカの場合、トランプ大統領が革命を起こした。 当選できるはずのなかったトランプ大統領が、闇の勢力の裏をかいて当選した。

トランプ大統領について、マスコミでは「変わった独善的な大統領」という描き方をしている。

しかし実際には、トランプ大統領は、光の勢力が送り込んだ大統領であり、やがて大統領職を辞め、生き残っているケネディ・ジュニアが新大統領になるらしい。


リーダーにも、フォロワーにも、どちらにもなることができる人。 そんな人こそが市民(citizen)である。

「成長」というのは、私の主観では「リーダーにも、フォロワーにも、どちらにもなることができ、基本的にピンでやっていける市民」になること。

つまり「その人の全能性を目一杯発揮できる状態」に近づくことを、私は「成長」と思っている。

結局、私は「●●しかできない専門家」というものを、最終的には否定します。

最も調和の進んだ段階では、その人が、「何から何まで独りでぜんぶできるようになる」のだと思っていますから。

つまり全方位に、丸く能力が発達している。 いいかえれば、能力の発揮状況の棒グラフが、球体になっている。 それが理想だと思うわけです。

それで、「リーダーにぶらさがっている脇役」という状態だと、リーダーも脇役も「全能性を目一杯発揮できる状態」から遠くなるだけでしょ?

「ボスをもつと、廃用性萎縮の法則によって、ボスに頼りたがる脇役になってしまう」というのがあると思う。

つまり「事態を自己責任において操縦している感覚」が得られない場合、人間は緊張感をなくし、操縦という危険な作業に伴って生じる「大きな成長」という果実も得られない。

ほんらいなら学校教育の目標は、「自分の心にある真善美に従って自分で意思決定のできる子供」の育成にあるのだと思う。 つまり「よき主体性の持ち主」を育成するのが、ほんらいの学校の役割。 それなのに、教師が児童・生徒の主体性を奪い取るような授業がおこなわれている。 そもそも、一斉授業そのものが「おのおのが主役」という状況をつぶしている。

とにかく、「あるリーダーが全体を統制する構造」を打ち壊す必要がある。 世の中のあらゆる場面において。

やはり小さな商店でも、「事態を自己責任において操縦している感覚」をもちながら運営していると、経営者としての成長があるのだと思う。 その成長が、人間としての喜びのうち、大きな部分を占めているのだろう。

それとともに、商店の経営を通じて「独りでも生きてゆける技術」を多くの人が手に入れることができる。 この「独りでも生きてゆける技術」を奪い取るのが「就職」だよ。

「新規事業の起業の準備をする部門」など、特別な部門に配属されないかぎり、「就職」しても「独りでも生きてゆける技術」は得られない。 「就職」によって、人間の能力の重要な一部が、無能化・無力化される面があるのだ。

「就職しようと思っている人間に、起業を勧めるジジイしね」とか、そういうSNSでの発言もあるらしい。

しかし、その暴言の主は、ある意味、間違っているし、恐怖ベースで行動しているという側面において、その将来は暗いと思う。

「恐怖ベースで行動する」とは、結局、カリスマやリーダーを待望し、カリスマやリーダーに依存する精神性をもつ人たちの行動パターン。 これが、独裁者の出現を許すんだよ。 あるいは、これが、企業の独占・寡占を許すんだよ。

例えば、Amazonの暴挙は目に余る部分が大きいので、Amazonはぶっ潰す必要がある。 だからヨドバシで買うようにする。 こういう心がけだけで、Amazonを弱体化させ、最終的には、Amazonを日本から追い出すことだって可能になるんだ。

Amazonの場合、「合法的脱税」を繰り返しているから、大規模な裁判をして、Amazonへの多額な支払命令が各国政府から出されれば、カンタンに解体できる。

私がAmazonを憎むのは、Amazonが「てんでんこに生きる環境を破壊してきた」からだ。 街の書店をぶっ潰したのはAmazonである。 Amazonは、庶民の努力によって、廃業に追い込もう。

イオングループなど、大手の流通グループが大型店舗をつくったせいで、街の商店街がシャッター商店街になってしまう。 これによって、小さな商店がぜんぶ吹き飛ぶ。

そうすると「小さな商店を経営しながら自己実現をする」という人間の喜び、生きている実感が、一気に奪い取られてしまう。 こういうことも、「人間が人間らしく生きられる世の中」を阻止する原因の1つになっている。

個人商店の復活、いいかえれば、てんでんこに生きることを邪魔する「大規模店舗」の規制法を、再強化しなければならない。

例えば、株式市場では、資金力が大きい機関投資家が、株価の支配力をもっている。 これは不公平・不平等なんだよね。

つまり株式市場を公平・平等に保つためには、1日当たりの取引資金の総額などで「適切な天井」をつくる必要がある。

ダンプカーが走り回る道路に、自転車や原付で走らされる。 これが、機関投資家に混じって、個人投資家が株式投資をおこなう場合における不公平・不平等なんだよ。

同様にして、流通業界においても、「ダンプカー」と「自転車・原付」を同じ道路で走らせてはならない。 そうでないと、不公平・不平等になる。 だから、大店法の再強化だよ、必要なのは。 地域経済が根こそぎダメにされるから、イオングループぶっ潰せよ。


例えば、「弟や妹の頼りなさ」「弟や妹の自由奔放さ」というのは、「目上のきょうだいによって、ある役割を先に取られてしまっているから、仕方なく、そういうキャラにさせられる」ということなのよ。

「兄や姉がしっかりしている」「兄や姉が慎重派でチャレンジ精神に欠ける」というのは、参考にする先達がいないのだから、どうしても、そうなるわけ。

つまり「人生は、残っている席に座らされるようになっている」。

そうして、座った席に与えられた役割を演じている間に、それが本当のキャラになってしまう。

中心人物がいると、残りの席には、脇役しか座れない。 というか、残りの席に座らされると、脇役扱いになり、脇役の役割を演じさせられてしまう。


私は「その人の全能性を目一杯発揮できる状態」が理想だと思っている。

平たくいえば、「その人の思いっきりを出し切れる環境をつくることが大事」だと思っている。 そうなっている状態というのは、「(コンビの場合)どちらが主役だかわからない」「誰が主役だかわからない」という、みんなが活躍し切っている状態なのだと思う。

これは結局、「他者のレーンに進入することなく、自分のレーンを全速前進している状態」が、それぞれの存在にかんして成り立っている状態なのだと思う。

それを実現するためには、「主役を張りたがるヤツ」を排除しなければならない。

というのも、「主役を張る」とは「周囲に脇役を配すること」を意味するから。

それは結局、その「主役を張りたがるヤツ」が、「他者のレーンにはみ出して走行している」ということ。

いいかえれば、脇役をさせられている側は、遠慮して、我慢して生きてるんだよ。

いいかえれば、脇役をさせられている側は、依存して、ラクをして生きてるんだよ。

人生は、それぞれの魂が、それぞれに主役なんだね。

だから、リーダー役の人の周囲に、脇役みたいなメンバーが集って、集団を形成するという構造がよろしくない。


例えば、学校の先生と生徒ということで考えてみるよ。

私は、先生がいるから、生徒が自発性・自主性を失うのであるから、先生は廃止したほうがいいと思ってるんだよ。

つまり生徒はそれぞれが、てんでんこに自学自習をすればいいのよ。

先生がクラス全体を教えるとか、そういうふうになっているから、勉強ができなくなるんだね。

どうして?

学校で勉強するときは、受動的な回路しか使わないでしょ?

ボスがいると、そのボスに従うメンバーは、「受動的な回路しか使わない人間」になってしまう。

つまり、先生がいると、生徒はみんな「受動的な回路しか使わない人間」になってしまう。

先生がいなくても自学自習のできる、「独立個人」というものになることができないんだね、学校制度の中では。

だから先生は、いらない。 だからリーダーは、いらない。

結局、ピラミッドの上の頂点みたいな「極」をもたない構造が望ましい。 誰がリーダーやらわからん、球のような構造がよい。

リーダーになりたがるヤツとか、直面する案件のジャンルによらず、どのジャンルでも見境なくリーダーシップを発揮しちゃうヤツとかは、最終的には邪魔。 必要ない。 いらない。

なぜならば、リーダーというものが存在するから、「独立個人」が育ちにくい環境になってしまうから。

私は「独立個人がてんでんこに生きる」ことが、最高の調和を生むと考えているんだよ。

だから、夫に頼る妻とか、妻に頼る夫とか、そういうことにならぬよう、「独立個人」として、それぞれが自立することが大事なのだと思うわけ。

「独立個人がてんでんこに生きる」ことのできる環境こそが、「その人の思いっきりを出し切れる環境」なのだと思う。

周囲に人がいると、バットを思いっきりブン回せないでしょ?

だから、個々人は適度な距離を取って、それぞれが独立的に、自分のテリトリーで、バットを思いっきりブン回すことが大事なんだと思う。

それを阻止するのが、リーダーとか、ボスとかなのよ。

リーダーのところに集まっちゃうのは、小物ばかりなんだよ。

小物は最初から「自分のテリトリーで、バットを思いっきりブン回すつもり」がないわけ。

まぁ、ひとさまの人生だから、いいんですけどね。

 
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