日本の理系教育は成功してきた|ただし工業高専の中には教授がクソなところも

以前は、工業高校というのは、勉強ができる部類の生徒が進学する先だったようです。

しかし、いつしか「勉強ができない生徒は、工業高校、商業高校に進学する」といったような感じになってしまった。 そんな印象を受けます。

他方、工業高等専門学校=工業高専は、かつては、中学でもトップクラスの生徒が進学する先の1つでもあった。

しかし、この頃の工業高専は、教授にやる気のない人が増えてしまったところも多いようです。

ですので、都道府県内でよく知られた、普通科の進学校を目指したほうが、進路としては「正解」かもしれません。


工業で成功する国家を実現するためには、教育制度を充実させてから、2世代(※1世代は30年)~5世代以上かかると思います。

学校教育に「上からの命令に従順な畜の養成」といった側面は、実際あります。

日本の学校教育は、労働者と兵士を養成することが、主たる目的です。

「上からの命令に忠実な畜」を養成するのは、大量生産の生産ラインに順応する労働者、命令通りに任務を遂行する兵士が、富国強兵(現在でもそういう感じで日本は運営されています)のために必要だからです。

そして、こういう教育があったからこそ「勤勉で正直で時間を守る労働者になりうる国民」が大量に養成できた。

だからこそ「技術立国日本」を存続することができている。そちらの側面もあります。

教育がもたらした「光と闇」を、両方とも公平・平等に評価する必要があると思います。

技術が100年・200年と継承されているからこそ、工業が今この瞬間にも成り立っているのです。

技術を継承する人材が枯渇すれば、技術は途絶えます。

技術の継承には、すぐれた理系教育が必要です。

そして、理系教育にかんして、日本はこれまで、大いに成功してきました。

もちろん、細かい部分については、ほころびが目立ちますよ。

けれども、少なくとも、これまでは、理系教育と技術立国という側面で、日本はうまくやってきた。

この理系教育まで「教育」の範疇に入れて、むやみに攻撃すると、おかしなことになります。


カメラ、レンズ、腕時計、ノートPC、自動車・オートバイ、高速鉄道技術などは、日本が世界一だと思います。

世界の多くのカメラは、Canon、Nikon、SONY、OLYMPUS、Panasonic、FUJIFILM、SIGMA、PENTAX、RICOH、CASIO(撤退予定)などの日本製です。

カメラのイメージセンサーは、SONYが市場を大きく支配しています。

SEIKO(セイコーエプソンのORIENTも含む)、CITIZEN、CASIOの3社だけで、世界の腕時計(台数ベース)のかなりの部分を占めると思います。

ノートPCで「壊れにくい」と評判なのは、Panasonic Let’s note(Made in Kobe)と、LenovoのThinkPadの米沢生産モデル(NECの山形県米沢工場の生産ラインを使用)です。

ノートPCは、やっぱりMade in Japanのものが安心です。

トヨタ、日産、ホンダ、マツダ、スズキ、ダイハツ、三菱、スバルの自動車は、世界で愛されています。

ホンダ、スズキ、ヤマハ、カワサキのオートバイは、世界で愛されています。

新幹線の技術が、世界に輸出されています。

TGV(フランス高速鉄道)は大きな脱線死亡事故を起こしていますけれども、新幹線は起こしていません。


日本経済が曲がりなりにも運営できているのは、以上のような「工業技術に基づく高付加価値商品」を海外に売って儲けたお金で、海外から食料などを輸入できているから。そういう側面も大きいでしょう。

その背景には、日本のすぐれた理系教育があるのだと私は思っています。

学校教育から、「上からの命令に従順な畜の養成」というブラックな要素を取り除けば、日本の教育は、正常化されるでしょう。

お金をたくさん儲けても学歴コンプは消えない

※学歴コンプの「コンプ」とは、コンプレックスの短縮表現です。

有名な講演者(漢方の健康食品・化粧品販売業の最高責任者)の講演の音声が多数、YouTubeに上がっています。

その有名講演者は、とてもためになることを講演を通じて教えてくれます。

しかし、講演の中で「自分には学歴がないけれども大金持ちになった」という一節が過剰に繰り返される心地悪さから、その有名講演者の講演音声を、私はいっさい聞かなくなってしまいました。

それは、繰り返されるその言葉の中に「有名講演者の心の奥底にある、学問を人並みに修めなかった後悔・罪悪感」のような響きが感じられるからだと分析しました。

強い「思い残し」「やり残し」の感情が、その有名講演者の深層心理に残っているように感じられました。

その有名講演者は、「ちゃんと勉強しなかった自分」が許せないのでしょう。

結局、まともに勉強しなかったことを、心中、ものすごく後悔しており、そのため自己肯定感が低くなってしまっている。

だから講演の中で「自己肯定をしている演技」を、その有名講演者が繰り返しておられる。

「自分には学歴がないけれども大金持ちになった」というのは、「講演者が講演者自身に対して行う言い聞かせ」。

その言い聞かせに付き合わされる聴衆は、たまったものではない。

言い聞かせがクドい。そんなの聞きたくない。

そのように私は感じ取っていたのです。

自己肯定感が低い人の典型的な4種類の行動パターンとその深層心理

学歴コンプの人が「リベンジ」のために出世した場合は殺伐としている

「自分には学歴がないけれども大金持ちになった」というのは、自分の心の中でリピートしていればよいだけなのであって、それを講演の内容として含めるのは、聴衆に「精神的公害」を与える行為です。

学歴コンプの「痛み」を、どうして聴衆にまで振り撒き、拡散させるのか、意味がわかりません。

コンプの「痛み」を「他者に吐き出す」ことで解消しようとする人は、図書館の静寂の中で、突然、大声を上げて注目を集めたい「気の触れた人」のような、そんな印象を受けてしまいます。 「座敷にクソを盛りやがって、こっちまで臭ぇじゃねぇかよ」ということです。 「クソは便所でしろ」ということですね。 これがわからないとしたら、その人は「赤ちゃん」です。


学歴コンプの人がおこないがちなのは、「マウンティングされた」分のネガティブなエネルギーを「マウンティングし返す」ことによって、ゼロレベルに戻そうという行為です。

これは、学歴コンプの人にとっては、正常な行為です。 やられたから、やり返す。 エネルギーバランス的には、当然の行為です。

しかし、この繰り返しによって、「音響でいうハウリング」のような「報復の連鎖」が続くわけです。

そうすると、世の中全体が、ネガティブなエネルギーに満ち満ちて、息が詰まるような感じの世の中になってしまう。

感情解放は、自分の想像上の空間でやってください。 想像上、殺人をしても大丈夫です。 現実世界でおこなわなければ。

例えば、虐待を受けて、あるいは、レイプされて、相手が憎いとすれば、相手を想像上で殴り殺してください。 ボコボコにやってください。 そうやることで、怒りのエネルギーを、心のブラックホールの中に捨ててしまってください。

「想像上で殺人などの報復をすることで、怒りのエネルギーを、心のブラックホールの中に捨てる」というのは、気体を入れるタンクが爆発しないように、気体を「抜く」ということです。 現実世界でそれをおこなわないのですから、犯罪ではありません。

この「ネガティブ感情のヌキ」をおこなってからでないと、残った感情に翻弄されて、まともに自己観察ができないと思います。

やり方は、それぞれの方にお任せします。

私は、やまがみてるおさんのやり方を参考にしています。


「相手にもよく、自分にもよい、循環する関係」というものが理想です。

何かのプレゼントやお裾分けを頂いたら、お返しがしたくなるでしょ?  この返礼の本能(心の中から自然に起こる返礼欲求)が機能しているのは、「相手にもよく、自分にもよい、循環する関係」が、世の中をよくすることを、私たちが深い意識で知っているからでしょう。

「もらったら、もらいっぱなし」「奪い取るだけで与えない」「やってもらって当たり前」のような人は、やがて淘汰されます。

例えば、セブン‐イレブンが、店舗のオーナーを、奴隷扱いしています。

こういう圧制的な態度でオーナーをイビり続けてきたのだから、セブン‐イレブンは、いつか大崩壊すると思いますよ。

セブン‐イレブンとオーナーとの間にあるのは「片務的な関係性」ですね? 

具体的には、「もらったら、もらいっぱなし」「奪い取るだけで与えない」「やってもらって当たり前」というセブン‐イレブンの態度が、オーナーとの関係性において、片務的だといえるのです。

片務性とは、「循環なき状態」を意味します。

これは、「相手にもよく、自分にもよい、循環する関係」ではありません。

宇宙は循環を根本としますので、「循環なき状態」「片務性に満ちた状態」だと、その系(システム)は大崩壊します。 したがって、セブンイレブンは、いつか大崩壊します。

「セブン‐イレブンの崩壊」というより、圧制的な経営を続けてきた人たちの追放ですわな。


学歴コンプの人が「成功」を追い求める場合、「マウンティングされた」分のネガティブなエネルギーを「マウンティングし返す」ことによって、ゼロレベルに戻そうというのが趣旨だから、殺伐とした「成功」になるんだよね。

「高級腕時計を着ける」「ブランド品で身を固める」「高級車を乗り回す」「豪邸に住む」「高級料理店に出入りする」など、「俗物感丸出し」になる。

本当の金持ちは、質素で庶民的な暮らしをしているのですよ。 だけどたまに、何十万円も出して、お寿司屋さんを家に呼んだりするんですよね。

そんなことは、いいんですけど、大事なのは、学歴コンプの人が「成功」しても、篤志家的な「施し」が伴わないことが多いのですよ。

例えば、家庭の事情で、朝食や夕食が食べられない子供たちに、無料で朝食や夕食をふるまう取り組みとかがあります。

デイトレーディングとかであぶく銭を儲けた人は、そういう篤志家的な社会貢献には興味がないことが多い。

自分の「成功」を誇示することで、「心の取り戻し」をしたいのでしょうね。 「ウンコが漏れそうな人がトイレに駆け込む」ような感じで、「高級腕時計を着ける」「ブランド品で身を固める」「高級車を乗り回す」「豪邸に住む」「高級料理店に出入りする」など、「俗物感丸出し」の生活に走る。 そんな印象があります。

心の根底にあるのが「リベンジしたる!」の精神ですから、循環的な関係性を求めていないんですよね、学歴コンプの人が「成功」した場合の多くは。

つまり「自分の優位性を誇示できる場面」でしかお金を使わない。

弱者救済みたいな、篤志家的な世界、地味な世界は好まない。

そういう感じがします。


あと学歴コンプの人が「成功」した場合に目立つのが、「学歴なんていらない」という思想を宣伝して回る行動ですね。

学歴コンプの人は、勉強しなかったことを、内心、ものすごく後悔している。

勉強から逃げた自分を、ふがいないと内心では思っている。

強烈な敗北感と、心の傷が、そこにはあるのですよ。

そうすると、やたらに「学歴なんかなくても、社会ではちゃんとやっていける」ということをまくし立てる人になる。

未練タラタラじゃないのよ? 

「お金をたくさん持っている優位性」によって、学歴コンプが消えるかといったら、消えないんだよ。

「勉強して大学に受かる」など、実践的な手段で直接手当しないと、学歴コンプは消えないのです。 というのも、学歴コンプは「勉強から逃げた、意志薄弱で怠惰な自分というものを、自分自身がしっかりと目撃している」という「偽ることのできない実体験」から発しているせいです。 だから学歴コンプには、「弱点の克服という課題から、自分自身が逃げてしまった」という「自分自身の弱さに負けてしまった感」が付随することが多い。 学歴という客観的なレッテルが問題なのではない。 他者が平然と乗り越えたハードルを、自分は乗り越えられずに逃げてしまった。 ガチで自分は劣っている。 「自分はこの課題を克服したい」と思ったけれども、「弱いから克服できない」ということで、諦めて逃げてしまった。 この諦めて逃げた自分が、惨めで、悲しくて、認めたくなくて、「お金儲けなど身代わりの成功」を追い求めるわけです。 しかし、これはお金を儲けたら晴れる憂さではない。 深層心理の奥底に付いてしまった傷だから、自分自身で深く潜って癒やすしかない。 現実的には、この深い劣等感、心の傷は、「勉強して大学に受かる」など、実践によって克服しないと、ぜったいに癒やすことはできません。 「勉強して大学に受かる」など、実践によって克服するまでは、グチグチ、グチグチ、「学歴なんていらない」「学歴なんかなくても、社会ではちゃんとやっていける」などの言い訳を言い続けますよ。 いやいや、医師になるためには、医学部医学科を卒業して、医師の国家試験に合格する必要がある。 こういうものにかんして、「学歴なんていらない」「学歴なんかなくても、社会ではちゃんとやっていける」ということは妥当しません。

ぶっちゃけた話をしますよ。

低学歴・DQNの方々は、「低学歴であることを指摘した人、嘲笑した人をボコボコにすることが『勝利』」だと思いがちなのですね。 つまり低学歴・DQNの方々は、「現象世界の現象が、外発的な要因で発生している」という錯覚から脱却できていないのです。 低学歴・DQNの方々は、「他人のせい」で「こうなってしまった」から「どう責任を取ってくれるんだ」というふうに、常に依存的な考え方をするわけです。

低学歴・DQNの方々は、「物事の発生が、外発的であると勘違いしている」のと「外発的な構成要素に対して、どうにかしてくれ(依存性)と迫る(甘える)」という他罰的なメンタリティをもっていることが多い。

「外に求める」「外に依存する」という「精神の脆弱さ」が、勉強において挫折したり、目標達成をカンタンに諦めたり、物事をカンタンに中途放棄したりするなどの結果となって表出しているだけなのです。

低学歴・DQNの方々は、心が弱い。 だから勉強もできないのよ。

低学歴・DQNの方々が、他者に暴力を振るうのは、「外に求める」「外に依存する」という「精神の脆弱さ」が原因なわけよ。

これは、「指導」「しつけ」が行き過ぎると、こういう「依存的で心が折れやすい、精神的に弱い子」になるのよ。

低学歴・DQNは、心が弱いから、頭も弱いの。 原因は、「指導」「しつけ」の行き過ぎにあることが多い。

結局、外側から「指導」「しつけ」をするのではなく、児童・生徒の内発的な部分を大事にして、待つことです。 忘れた頃に「発芽する」んですよ、人間は。

低学歴・DQNがわかっていないのは、「苦しいときでも諦めないで続ける根性を身につけること」が「本当に勝つこと」だという点。 自分の低学歴をコケにした相手の家に、金属バットを持ってカチコミに入っても、勝ったことにはならない。 このことを低学歴・DQNは、わかってないんだよ。 外発的な要因は関係ないんだよね。 自分の内側、内発的要因としっかり向き合い、自分の弱さと向き合い、それを「誰が見ていなくても、コツコツ修正していく」という「内に秘めたる強さ」が必要なんだよ。 低学歴・DQNには、それがない。 徹底的にない。 陰で努力しないよ、低学歴・DQNは。 見ていないとサボるよ、低学歴・DQNは。 だから中卒なわけ。 だから高校中退なわけ。 だから社会から低評価を食らうわけ。 低学歴・DQNに対する低評価は、低学歴・DQNの「心が弱い」ところから派生した現象なのよ。 差別ではないんだよ。 クズを「クズだ」と正当に評価しているだけ。

「プレジデントファミリー」を購読していて、我が子に小学受験とか、中学受験をさせる親御さん。 彼らの大半が、中偏差値から低偏差値の私大出身だそうです。

つまり学歴コンプの親御さんが、中学受験のお客さんなんですよ。

「いらっしゃませ、いらっしゃいませ、毎度ありがとう存じます。●●中学でございます。学歴コンプの親御さん、どんどん受験して当校の発展にご協力くださいませ」ってことです。

「我が子に小学受験・中学受験をさせる」というのは、ある意味、「自分が経験できなかった、思い残した、やり残したことを、我が子を使って、代理的に経験する」ということ、いいかえれば、「我が子に、親の人生を生きさせる」ということになるわけです。 しかしこれは、「我が子のアカウントを、親が乗っ取る行為」なのですよ。 宇宙の大原則である「自由意志の原則」=「不干渉の原則」に反する行為なのです。 「他者のレーンに入る」という交通違反でもあります。

だって、我が子の内発的な欲求によって、小学受験・中学受験をしようという話になったわけではないでしょ? 

親がそういうことだと、子供が「親の期待に応えるために生きなきゃいけないんだ」という呪縛を受けるわけ。 そうすると、大学を卒業して、いい会社、いい役所に就職した途端に、ぶち切れて、すべてを投げ出す。 会社や役所をやめて、風来坊みたいになるんだよね。 コレ、パターンですよ。 必ずといっていいほど、そうなります。

どこで「いい」と「ダメ」を見分けているのかというと、そこに「循環」があるか、ないかです。 子供からのフィードバックを、親御さんが聞き入れていないでしょ?  そこで、すでに「暴力」なんだよね。

専制政治・独裁政治について、どこで「いい」と「ダメ」を見分けているのかというと、そこに「循環」があるか、ないかです。 民衆からの意見がフィードバックされないとしたら、「非循環」なのでダメ。 したがって、専制政治・独裁政治は「ダメ」。 単純です。 「循環」の有無だけ見ていればいい。

親が子供に「頭ごなしに子供の将来を決めつける」「頭ごなしに子供の進路を決めつける」という「虐待」をおこなっているのですよ。

そして、我が子とはいえ、他者です。 他者には他者の「独自の人生を生きる権利」があるのです。 そこを侵害しないことですよ。

子供に提案して、却下されたら、引き下がることです。

その人の人生は、その人の「主権の範囲」ですので、勝手に侵略するべきではないのです。 実の親でも、兄弟・姉妹でも、そうです。

「親の支配する心」ほど子供を傷つけるものはありません。

「そちらのほうが安全だから」「子供のためを思って」というのが偽善なわけよ。

「支配欲」「権勢欲」を満たすために「善」の観念を悪用しているのが「指導」「しつけ」の好きな人の本質なんだよね。

結局、それは「指導」「しつけ」の好きな人は、独力で自己承認ができないから、「他者を良い方向に導いてあげる」という「体(てい)」で他者に依存しているわけです。

「他者を良い方向に導いてあげる」という「依存行為」のことを「指導」「しつけ」というのです。

広い意味での教育というのは、非言語的なものです。 つまり、親が生き方で手本を示し、それを子供が見て学ぶ。 けっして「指導」「しつけ」をしない。 これが本物なんですよね。

たいしたことのできない親御さんほど、「指導」「しつけ」をしたがるのは、こういう仕組みなのです。 中身が充実していない大人ほど、「指導」「しつけ」という「他者への依存」に走るということです。

もちろん、「公立校が荒れている」「だから私立」という理由もあるでしょう。 しかし、私立中学のほうが、人間関係がクローズドな部分が大きいので、対立やイジメが深刻な場合があるのですよ。 我が子の学年が上がっても、児童・生徒も、その保護者も、同じメンバーだからね。 いったん人間関係が崩れたら、悲惨よ、悲惨。

芸能人のご子息が、青山学院の系属校によく入学していますけれども、ドロドロだよ、人間関係が。 江角マキコと長嶋一茂の「戦争」、知ってるでしょ?  ただちに「私立校だからいい」ってことには、なりません。

まず「学校に序列をつけること」=「児童・生徒に序列をつけること」の大きな狙いは、社会を分断統治(分割統治)する点にあります。

「教え合い」「助け合い」というものは、「教え合った人どうし」「助け合った人どうし」が循環の輪で結ばれるのです。 無限大(∞)や八の字(8の字)を考えてください。 算用数字の8は、たぶんメビウスの輪を意味しています。 「循環構造にする」と「終わりがない」わけです。 「末広がりだから八の字が縁起がいい」というよりも、そこに循環があるから、互いに発展できる(win-winの関係)ということなのです。

社会構造を階層化して、分断統治(分割統治)をする。 これは、メンバーどうし、グループどうしの「相互扶助関係」=「循環構造関係」を、できるだけ断ち切っていく(孤立化させる)ことが目的なのです。

こうして、「社会を構成する要素」どうしが分断され、孤立化させられ、かつ、上位者には逆らえない状況にすることによって、「命令の流れ」「意思達成の流れ」が回路にダイオードを挿入した場合のように一方通行になります。 いわば「上からやられっぱなし」という「片務的な関係性」になる。

こうして「命令・意思達成の流れ」が「整流」されると、一元支配されることになる。 独裁者の命令一発で、大きなことがおこなえる。

専制政治、独裁政治が可能になるからこそ、分断統治(分割統治)をするわけです。 そして、分断統治(分割統治)をするために、「社会を構成する要素」どうしを「分断・分割・孤立化」させる。

それとともに「社会を構成する要素」どうしを競争させる。 「協力関係(互除関係)」=「双務的関係性」ではなく「対立関係(相克関係)」=「片務的関係性」にさせる。

結果として、序列、ランキング、ヒエラルキー構造がつくられる。

その結果として、一元支配(独裁制)が実現するわけです。

「バラバラにして」「競争・対立させて」「序列=ランキングの中で生きさせる」ことによって、独裁者だけが得をする構造がつくれる。

だから学校を偏差値で分けて、児童・生徒を序列化させる。 児童・生徒を序列化させるために試験・テストがある。

小学受験・中学受験をしても、「競争・序列化」において、そこまで優位に立てるわけではない。 小学受験・中学受験をしても、高卒で終わる子、あまり優秀ではない大学に入学する子。そういう子もいるのです。

そして小学受験・中学受験が、我が子の幸せにつながらない場合も多い。 それなのに、親御さんは、ご自身の学歴コンプを解消するために、我が子に「代理的なリベンジ」をさせている面がある。

そのあたり、騙されているのですよ、親御さんが。


社会が一定以上に豊かになると、お金のある優位性なんて、カンタンになくなってしまいますからね。

お金持ちになっても、単価が上がるだけですよ。 普通指定席に乗っても、グリーン車に乗っても、到着する駅・到着する時刻は同じでしょ? 

お金持ちになっても、消費する財・サービスの単価が高くなるだけ。 ズームで拡大しただけ。 生活自体は、そんなに変わらないんですよ。

残る課題は、自分の自己実現です。

自分が「よりよく生きてきたか」という自分の真善美の観念の問題になる。

そうやって、ピュアに自分自身を見つめると、「勉強から逃げた」という部分で、心に引っかかりがあったりする。

そういうもんなんですよ。

承認欲求の解消先をお金に求めても、結局、裏切られるだけなんだよね。

人間は「お金を持っている人を尊敬する」ようにはできていないから。

「才能はお金では買えない」「才能を伸ばすために、とくに若い時代の学習や鍛錬が大事」ということを強く思います。

「お金よりも大事なもの」は、若さや時間であったりします。

あなたは勉強から逃げた自責の念で苦しんでおられるのですか? 

学歴コンプレックスというのは、学歴を身につけることでしか解消できません。

本質的には、「低学歴が世間から低く評価されるから」で苦しむのではなく、「自分の中でくやしい」のです。 「スポーツ、あるいは、ゲームで負けてくやしい」のと同じですね。

どうして、あのとき、ああいう攻め方になってしまったのか?  戦術を間違えた自分自身に悔いが残る。 これが学歴コンプの本質だと思います。

中学時代の勉強なんて、たいした分量ではありません。 そんな「少量の勉強」からも逃げてしまった。 このときの自分の弱さに対して腹が立つのです。

他者は、あまり関係ありません。 自分自身に対してくやしいのです。

「自分に負けた」ということが、心残りなのです。

就労ビザを取得するとき学歴が物を言う場合がある

海外の就労ビザを取得するとき、大学を出ていればホワイトカラーの職種に就くことが可能だけれども、大学を出ていなければ、肉体労働系の職種しか選べない感じになっているようです。

どんなウンコ大学でも、ちゃんと卒業すれば、学士の「学位」が得られます。 たとえそれが、Fラン大学でも、です。

「自分は何ができます」ということを、海外の人にわかるような「学位」で示す。

そのために学歴が使える面がある。

我が子の失敗を見て見ぬふりできるか? 

人間は、失敗を通じて学ぶために転生したようなところがある。

私はそのように考えています。

失敗も含めて「経験」であり、「経験」をするために、この世に転生したのです。

そして、最も素晴らしい「経験」というのは、失敗を「経験」して得られる気づきなのです。

気づきというのは、「他者からいわれて、そう思う」ということではありません。

気づきは常に、内発的です。

ですので「内発的な気づき」という言い方にします。

「内発的な気づき」。 それは、「あぁ、こういう生き方をして間違えてしまったなぁ」(詠嘆)というものが、心の奥底から湧いて出る瞬間です。

このとき「成長」が起こるわけです。

「成長」の結末は、「内発的な気づき」なのです。

この「内発的な気づき」を、外部から阻止するのが、「親が先回りして、答えをゆってしまうこと」なのです。

「しつけ」「指導」の好きな方は、この「先回りして、答えをゆってしまう愚」に必ずおちいります。

「親切に教えてやった」と思っているんですね、「しつけ」「指導」の好きな方は。

でも、そこで「しつけ」「指導」を受けた人の人生の計画、いいかえれば、「内発的な気づき」を得る計画が失敗するんですよ。

「しつけ」「指導」の好きな方は、「あぁ、こういう生き方をして間違えてしまったなぁ」(詠嘆)という、「内発的な気づきという果実」を、本人が味わう機会を奪い取っている。 それは、他の魂の「成長」の機会を奪い取っている、ということなのです。

他者は、愛を以て放っておくのが一番です。

我が子といえども、他者です。

他者には、他者固有の人生の目的があり、「何を経験するために生まれた」という青写真に基づいて生きているのです。 それを絶対に邪魔しないことです。

ですから、相手のためを思って、他者の失敗を未然に防ぐのは、悪いことです。 その人は「失敗を経験するために、失敗する場面に遭遇している」わけですから。

ですので、我が子が失敗するのが事前にわかっていても、「この子が失敗を経験するために、それを選択したのだから、心を鬼にして黙っておいてあげよう、放置しておいてあげよう」というふうに、「大人」になれるかどうかが大事だと思います。

「しつけ」「指導」の好きな方は、他者を「しつけ」「指導」することが、自分の人生の課題だと思っているのでしょう。

しかし、そればかりになると、指導者本人が「成長」せぬまま、人生を終えることになりますよ。

学校の先生で、ものすごく未熟な人がいます。

「しつけ」「指導」を業としてしまうと、本人の人生経験がおろそかになり、それこそ「成長」する機会を失ってしまっているようにも見えるのです。

つまり、親は親で、自分の人生を「思いっきり生きる」ことが大事。

子は子で、自分の人生を「思いっきり生きる」ことが大事。

魂の成長は、それぞれ別個。 それぞれ個別的。 人生は「てんでんこ」にできているわけです。

そして、「てんでんこ」に生きている魂どうしが、同じ立場に立って、助け合う。 これが本物だと思いますけどね。

あり得ない言葉づかい|いじめ自殺生徒の父に「お前」

この背景には、「長幼の序」というと聞こえはいいけれども、「後輩や教え子に対する見下しの観念」があるということなのですよ。

「イヌ・サル遺伝子」とか、「序列社会」というのは、こういったハラスメントと隣り合わせなのですね。

「てんでんこに生きる魂どうしが、対等な立場で」という精神が、「しつけ」「指導」を好む人にはわからない。 わからないのなら、棲み分けをするしかありません。

そして、「しつけ」「指導」を業としてしまうと、本人の人生経験がおろそかになり、それこそ「成長」する機会を失ってしまっているようにも見えるのです。

10/11(木) 16:31配信
産経新聞
 新潟県新発田市の市立中2年の男子生徒=当時(13)=がいじめを苦に自殺した問題で、同市の山田亮一教育長が11日、遺族に不適切な発言をしたとして二階堂馨市長に辞職願を提出した。二階堂市長は受理し、17日付で辞職を認める見通しだ。
 この問題では、山田教育長が5日、父親の自宅に謝罪に訪れた際、「(保護者説明会に)お前も来るか」などと話したとして、父親が不快感を示していた。
 山田教育長と父親は小学校時代の担任と教え子だったが、父親は「この場ではあり得ないと思った。(自殺のことを)軽く見ているのかなと思う」と指摘。山田教育長は10日、「私のその場にふさわしくない発言が、ご遺族の心を深く傷つけたことについておわび申し上げます」とのコメントを発表していた。
 二階堂市長は11日、「ご遺族に深くおわびを申し上げる。今後は再発防止策の確実な実行と信頼の回復に努める」とコメント。父親は「教育長が代わっても(いじめ防止のための第三者委員会の)答申の提言を実現するために力を尽くしてほしい」とした。

引用元: いじめ自殺生徒の父に「お前」 新潟・新発田市教育長が辞職(産経新聞) - Yahoo!ニュース

 
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