安倍首相、麻生副総理などは「しつけ」「指導」によって育った子だと思う

「家業として売国をおこなう家系」に転生したということは、そういうお役目なのですよ。

闇の勢力といえども、お役目で闇の勢力をやっているんですよね、根本的には。

闇の勢力の手下とて、創造神の分け御霊で、私たちを同じなのです。

それで、どうやって、あそこまで転落したのか。 つまり、闇の勢力からいわれるがままに、日本を売り払い、日本をおとしめることが、どうしてできるのか? 

それは、安倍首相、麻生副総理などは、「外発的な要因で行動する」ように刷り込まれてしまっているのですよ。

条件が整うと、すぐに悪に走る。

条件が整うと、すぐにモラルハザードをカンタンに起こす人は、内心に善の仕組みを構築していない。

一言でいうと、 「お父さんに怒られるから、こうしておく」 「お母さんに怒られるから、こうしておく」 「先生に怒られるから、こうしておく」 という、外発的要因によって、ようやく「見かけ上、モラルを保っている状態」で生育してきているわけです。

したがって、闇の勢力から強く迫られると、いわれたようにやっちゃうんですよ。

田中角栄さんは、闇の勢力からいわれたようには、やらなかった。

竹下登さんも、闇の勢力からいわれたようには、やらなかった。

橋本龍太郎さんも、闇の勢力からいわれたようには、やらなかった。

鈴木宗男さんも、闇の勢力からいわれたようには、やらなかった。

石破茂議員も、闇の勢力からいわれたようには、やらないでしょう。

つまり「自分の命、あるいは、政治生命を賭してでも日本を護る行動がとれる」というのは、内心に構築された善の仕組みに基づいて行動するように、自分自身を育て上げてきた結果なのです。

「しつけ」「指導」をしすぎると、自分で考える子になりません。 それは「善の仕組みが内心に構築されない」ということです。

「しつけ」「指導」をしすぎると、 「お父さんに怒られるから、こうしておく」 「お母さんに怒られるから、こうしておく」 「先生に怒られるから、こうしておく」 という、外発的要因によって、ようやく「見かけ上、モラルを保っている状態」で生育し、それで大人になります。 これが犯罪者予備軍です。

安倍首相、麻生副総理などは、売国行為という犯罪(しかも大罪)を犯したので、やがて逮捕されるでしょう。

麻生副総理の娘さんは、フランス系ロスチャイルドの方とご結婚されているようです。 麻生副総理は、日本の水道をフランス系外資に売却しました。

ワイロをもらって水道をフランスに売り飛ばした麻生:皇太子が日本の浄化を開始した: | ひめとあとむのブログ(旧サファイアのブログ)

米国での戒厳令が11月3日と噂されます。 そこから米国で、大規模な「闇の勢力パージ」が決行されます。 世界を私物化してきた人たちの大量逮捕ですね。

これによって、「米国の司令部」から命を受けて売国活動を展開してきた、日本の「闇の勢力の手下たち」は、いわば「ボス」を失います。

米国で大規模な「闇の勢力パージ」がおこなわれ、浄化がおおかた終息したところで、同じことが、日本の「闇の勢力の手下たち」にも及びます。

安倍首相、麻生副総理、森元首相、中曽根元首相、竹中平蔵氏など、売国行為に手を染めた人々は、逮捕されるでしょう。

この大嵐が、平成の終了から、新元号までの(2019年の3月ぐらいまで)に終わり、「浄化された新生日本」が新しい天皇陛下のもとで始まるようです。

ですので、2019年10月に予定されている10%の消費増税は「ない」と私は見ています。

10%の消費税を推進してきたグループは、逮捕されて政治生命を失い、「浄化された新生日本」の議員が、消費税廃止法案を通すでしょう。

とにかく、「外からの命令」「外側の基準」で生きている人は、魔に付け入られやすい。

安倍首相、麻生副総理、森元首相、中曽根元首相、竹中平蔵氏などは、「しつけ」「指導」をされすぎて、自分で考える力を育て損ねてしまった子たちなのです。

善を貫いて殺されていった政治家たちを称えましょう。

安倍首相、麻生副総理などは「素直力」と「頑固力」の使い分けを誤っている|原因は「知性の不足」

「魔の手にかかりやすい」「ダークサイドに転落しやすい」というのは「知性の不足」が、その根本原因なのだと思います。

安倍首相、麻生副総理などは漢字の読み違いを繰り返しています。

小学校の漢字ドリルからやり直して、中学生用の国語辞典ぐらいの範囲の熟語を、用例とともに暗誦すれば、「大人として恥ずかしいレベルの読み違い」は、必ず回避することができます。

公衆の面前で、あれだけ大失敗をして、大恥をかいたのに、それでも勉強しないんですよ、漢字と熟語を。 これって「勉強しない」という部分に「頑固力」を使ってしまっているのでしょうね。

頑迷固陋(がんめいころう)とは、このことをいいます。

「素直力」というのは、自分の誤り・失敗を素直に認めて、その瞬間に改めることです。 「君子は豹変す」とは、こういうことをいうようです。

自分が悪かったら「秒で謝る」、自分が間違っていたら「秒で改める」といったようなことです(現代では)。

易経の原文をたどると、「君子豹変、小人革面」とあり、「立派な人物は、自分が誤っていると分かれば、豹の皮の斑点が、黒と黄ではっきりしているように、心を入れ変え、行動の上でも変化がみられるようになる。反対に、つまらぬ人間の場合は、表面上は変えたように見えても、内容は全然変わっていない」と述べています。
 現代ではややニュアンスを変えて、「誤りに気づいたら、素早く今までの意見を改めたり、行動のパターンを転換してよい」という教訓として受け取っています。
 また、場合によっては、勝手に解釈して「融通無碍」に変節したり、前言を翻した場合にさえ、この格言を濫用しているようです。

引用元: 君子は豹変す | 創考喜楽 | 教育業界の常識にQuestionを投げかけるメディア

ほんらいの「君子は豹変す」とは、「君子は、自分が誤っていることがわかったら、心の底から改めて、行動も心を反映して改まる」というようなことのようです。

他方、「つまらぬ人間は、表面上は『演技』で変わったように見せかけて、中身はまったく変わっていない」というのが、「君子は豹変す」の意味するところのようです。

これは「しつけ」「指導」によって育った子は「いい子を演ずる演技」する子に育つだけだという、ここ最近繰り返し述べている、私の主張と同じ意見です。

「しつけ」「指導」によって、内発的に善の仕組みを構築するプロセスがダメになる。

それは、動植物でいえば、「野生種(やせいしゅ)は強い」というようなことです。 放っておいて、「淘汰されずに生き残った種(しゅ)」は、それなりの「内的充実」という条件を満たしているのです。 そこには「それ自身が強いから生き残った」という事実があるのです。 「他者から手をかけられて、どうのこうの」ではないわけです。

「しつけ」「指導」をすると、それらをされた対象(児童・生徒・学習者・新人などなど)は、自己決定系(self-determination system)を使わないで「外発的な基準」に合わせ込む「振り付け」を覚えるだけになるのです。

平たい言葉でいえば、「しつけ」「指導」された子は「真面目を装うのがうまくなるだけ」ということ。 刑務所を出所して、すぐ再犯して戻るのがいますよね?  彼・彼女は模範囚でした。 どうして再犯するの? 

刑務官の押し付け、刑務官の「しつけ」「指導」という「外的ノイズ」によって内心をかき乱され、けっして内心と向き合うことなしに出所してしまったからです。

「しつけ」「指導」は、自己決定系を使わない「反省」という「見せるための演技」をする人間をつくり、「見せるための演技」をする人間は犯罪者予備軍になります。

刑務所における「しつけ」「指導」は再犯者を生むだけなのです。

自己決定系とは、「内発性のエンジン部分」のことです。 「自分が、こう考えるから、こう思うから、こう信じるから、こう行動する」という部分が、自己決定系です。

精神の「内発系」が「自己決定系」です。

学校教育とか、家庭での「しつけ」「指導」は、この「自分が、こう考えるから、こう思うから、こう信じるから、こう行動する」という部分を使わせないようにするのですね。

誰か「指導者」の「しつけ」「指導」に、それらを受ける人間が合わせるかたちになる。 そこからは「外発的要因を出発点として行動する精神」しか生まれない。

「外発的要因を出発点として行動する精神」というのは、「自分が勉強したいから勉強する」のではなく、「誰かの期待に応えるために勉強する」「勉強して立派なところを見せつけてやろうとして勉強する」などと、同じ系統のことですよ。

「自分が、こう考えるから、こう思うから、こう信じるから、こう行動する」という、行動原理の根本の部分をEDIT(編集)しないと、人間は改心したことにはならない。

それを邪魔するのが「しつけ」「指導」なのです。

あるいは、それを邪魔するのが「勉強しなさい」などの「命令」なのですね。

内側と向き合う時間が奪われるんですよ、「しつけ」「指導」「命令」をされると。

「遊ぼうよ、遊ぼうよ」としつこく誘ってくる友達がしょっちゅう来ると、「自分の心を育てる時間」を失うでしょ? 

「しつけ」「指導」「命令」というのは、その「遊ぼうよ、遊ぼうよ」としつこく誘ってくる友達なの。

だから、やめなきゃいけないの。

MixiがウザくなってMixiやめた。

FacebookがウザくなってFacebookやめた。

TwitterがウザくなってTwitterやめた。

LINEがウザくなってLINEやめた。

こういSNSも「『遊ぼうよ、遊ぼうよ』としつこく誘ってくる友達」と同じだわな。

イヌの「遊ぼうよ、遊ぼうよ」も、たいがいしつこいよね。

イヌはかまってやらないと、いじけちゃうんだよ。 だから「イヌ・サルの遺伝子」という言い方をするんだよね。

イヌはパーソナリティが「他者依存的」なんですよ。

ネコは独立的なパーソナリティね。

親御さんは、親御さんで、自分自身をよりよく生きることだけを続ければいい。

賢い子なら、見て学びますから。

アホな子は、「しつけ」「指導」「命令」をしても、アホですから。 「しつけ」「指導」「命令」はムダなのよ。

なるようにしかならん。

だから、まずは自分自身を統御することだけを考えればよい。

他者を「しつけ」「指導」しようなんて、傲慢(ごうまん)だよね、「魂の精神的態度」「魂の振る舞い」として。

そのあたりが、「しつけ」「指導」をしたがる人には、理解できないんだよ。 「親切にしている」「良いことをしている」と信じ切っているからね、愚かなことに。

「しつけ」「指導」によって育った弱い子は徒党を組みたがる

「しつけ」「指導」によって育った弱い子は、自己決定系(self-determination system)が未発達なので、単独行動をすることができなくなります。

一言でいって、「しつけ」「指導」によって育った弱い子は、集団の中でしか生きられない「畜」になります。

「畜」というのは、「しつけ」「指導」「命令」などをする「指導者」に依存するメンタリティをもつ魂のことです。

自己決定系を使うことが当たり前である。

自己決定系を使うことが楽しい。

このプロセスに入っている人は、独りで生きられる強い子になります。

「独りで生きられる強い子」は、親御さん、先生からすると、「生意気」で「かわいくない」んですよ。

わかりますかね、この感じ。

「ダメで甘えてくる子」が好きなのよ、「しつけ」「指導」「命令」などをする「指導者」タイプの人は。 これが共依存の始まりになるわけ。

コレによく似ているのが、「ダメ男」と「尽くしてしまう女」の関係性なんだわ。

「ダメで甘えてくる子」「甘え上手な子」というのが、「品(しな)をつくった女」みたいに、「しつけ」「指導」「命令」などをしたがる「指導者」タイプを狙い撃ちにするわけよ。

また逆に、「しつけ」「指導」「命令」などをしたがる「指導者」タイプの人間は、誰も彼もが「ダメで甘えてくる子」「甘え上手な子」だと仮定して、「しつけ」「指導」「命令」などをしたがる。 しょっちゅう、マウンティングしに来る。

この「ダメ男」と「尽くしてしまう女」の関係性が「イヌ・サルが群れをつくるときの関係性」のようにして、上から下まで連鎖していくわけ。

この関係性が、学校で、会社で、警察で、消防署で、自衛隊で、運動部で、家庭で、いろいろな場所で、「男女の性愛」「男どうしの性愛」「女どうしの性愛」「女男の性愛」のようにして、日々、営まれている。

上意下達のしくみそのものが、「SとMみたいな、しかし行為を伴わない、精神的な意味での性愛関係として連鎖している」わけです。

「ダメ男」と「尽くしてしまう女」の関係性って、「プレイ」だわな? 

ある意味、キショいよ、それは。

「しつけ」「指導」「命令」というのは、この「きもプレイ」を、学校で、会社で、警察で、消防署で、自衛隊で、運動部で、家庭で、いろいろな場所で展開することなのよ。

これは一種の遊びにすぎず、「しつけ」「指導」「命令」を受けた側である「児童・生徒・学習者・新人などなど」の自己決定系(self-determination system)を活性化・強化することにはつながらない。

むしろ自己決定系をダメにしてしまう。

結果として、「しつけ」「指導」「命令」を常におこなっていると、それらを受けた人々は、独りで立つことができなくなります。 「独りでは何もできない」「集団を組みたがる」「グループ化する」「リーダー、カリスマを待望する」ということになる。

ヴァイマル憲法のもと、独裁者ヒトラーを待ちわびるドイツ国民が授権法(全権委任法)に賛成した。 この感じになるわけですよ。

「しつけ」「指導」「命令」を常におこなっていると、それらをされた側の人々は、パーソナリティが受動性に傾き、リスクを取って最先端を切り開く勇気が失われます。 そして「指導者」に依存するようになる。

「独裁者ヒトラー」も「小さく依存的な人間」。

「独裁者ヒトラー」を待望した「当時のドイツ国民」も「小さく依存的な人間」。

「独裁者ヒトラー」と「当時のドイツ国民」が共依存の関係を結びながら、第三帝国(ナチス・ドイツ)が形成されていた。

第三帝国(ナチス・ドイツ)の参加者たちの中に、「内心の善の仕組みにしたがって、自分独自に判断する」という人々が、少なかったのだと思います。

とにかく、「独裁者」と「独裁者に従う民衆」との間には、共依存の関係性がある。

「ダメ男」と「尽くしてしまう女」の関係性も、そういう共依存の関係性でしょ? 

「ダメ男」と「尽くしてしまう女」の関係性に似ている状況が生まれたら、「これは危険だ」と思う必要がある。

だから、「徒党を組んでしか遊ばない子」「グループ化する子」というのは、自己決定系に脆弱性がある。 これを、私は痛感しています。

集団リンチするとき、そのグループを恐怖支配をしているリーダーの子が必ずいるんですよ。

集団リンチがどうして起こるのか? 

イジメがどうして起こるのか? 

ぜんぶ原因は、構成メンバーが「内心に善の仕組みを構築した、独立した人格」を確立し損ねた人たちだからです。

「集団リンチを主導するリーダー格の子」も「リーダーに追随する子分たち」も、両方とも、「独立的でない」「てんでんこでない」わけです。 みんな「外側からの刺激で動く」ように訓練されている。 いいかえれば、「外部への依存性が高められたパーソナリティ(外部に対して受動的なパーソナリティ)に傾いた、偏った人格」になってしまった「人格的出来損ない」たちが、集団リンチをする。

イジメも同じでしょ?  構成メンバーが「外側からの刺激で動く」ように訓練されている。 彼らはけっして「内心にみずから構築した善の仕組みを使って判断する」というパーソナリティではない。

つまり「人格的出来損ない」とは、「外側からの刺激で動く」ように訓練されている人たちをいう。 「人格的出来損ない」が「発生」したのは、「しつけ」「指導」「命令」を常に受けてきたから。


構成メンバーが「内心に善の仕組みを構築した、独立した人格」を確立し損ねた人たちだと、社会が狂う。 それは例えば、第三帝国(ナチス・ドイツ)における「独裁者ヒトラー」と「当時のドイツ国民」ね。

「独裁者ヒトラー」と「当時のドイツ国民」は、ともにダメ人間だった。

「独裁者ヒトラー」と「当時のドイツ国民」の関係性は、「ダメ男」と「尽くしてしまう女」の関係性に、とてもよく似ている。

依存性が生まれる。 最後は独裁者を生む。 だから「しつけ」「指導」「命令」をするな、ということ。

したがって、教育すべき対象は、放っておけ、ということなのです。 「教育」するな、ということです。

放っておけば、動植物でいう「野生種(やせいしゅ)」として強く育つであろうから、余計な手をかけないことが大事。 そういう意味のことをいいたいのです。

「しつけ」「指導」によって育った子|型枠がないと存在できないスライム

「しつけ」「指導」によって育った子は、コンパネでつくった、コンクリートの型枠に入れられた、スライムのようなデロデロ状態のゲル状物質である。

「しつけ」「指導」によって育った子は、外部規範がないと途端にモラルハザードを起こして犯罪に走る。

警察には犯罪者が多い。 犯罪の温床、警察署。

警察学校からして、「しつけ」「指導」によって育った子を養成する教育機関だから。

警察学校って、「パワー・ハラスメント」「イジメ」がひどいらしいよ。 前橋にも、国道17号線沿いに警察学校があったよ。

警察学校を出た人が、警察官になるでしょ?  上司から「しつけ」「指導」されるでしょ?  上司を拳銃で撃ち殺すんだよ。

「しつけ」「指導」って、「パワー・ハラスメント」「イジメ」なんだよね。

そして、「しつけ」「指導」を強く受けすぎた人は、上司を拳銃で撃ち殺すような、犯罪者になるんだよ。

「しつけ」「指導」が、どれだけの「抑圧」を与えるか、よく知っておこう。 その「ネガティブなエネルギー」は、必ず「現象」となって表出する。

精神エネルギーにも保存則があるんですよ。

学校でのイジメのエネルギーって、どこから来るの? 

家庭での「しつけ」「指導」が筆頭に挙げられるでしょ? 

父母から我が子への「パワー・ハラスメント」「イジメ」が「しつけ」「指導」という美名で語られている。 こういう欺瞞に満ちた世界に、私たちは生きているのです。

「しつけ」「指導」は、枠組みに依存する弱い子をつくります。

「枠組みに依存する」とは、法律的な縛りとか、罰則とか、暴力とか、いわゆる「ムチによってしばかれなければ、見境なしに何でもやっちゃう状態」を意味します。

上司を拳銃で撃ち殺すような警官は「枠組みに依存する」で「自分が固まっていない」んですよ。

「自分が固まる」とは、善の仕組みを、心から納得して受け入れ、「善に基づき、自分ひとりで勝手に生きてゆける状態に至る」ということです。

「自分が固まっている人」には、枠組み/型枠って必要ないんですよ。 法律もモラルも必要ない。

だって「自分が固まっている人」は、善が心に内在しているんだもの。

誰が見ていなくても、勝手に努力する強い子。 こういう子が、善が心に内在した「独りで立つことのできる人」、つまり国の宝なのです。

誰が見ていなくても、悪をなさない強い子。 こういう子が、善が心に内在した「独りで立つことのできる人」、つまり国の宝なのです。

善が心に内在した魂が集う国。 それが、民度の高い国なのですね。

民度が下がるのは、「しつけ」「指導」をする「民度を下げる元凶」がいるからです。 日体大出身の暴力体育教師とかも、「民度を下げる元凶」です。 相撲部屋のあの人も、この人も、「民度を下げる元凶」です。

軍隊とか、部活動とか、そのノリをぜんぶやめないといけません。

相撲は、「相手を撲(なぐ)る」と書きます。

「相手を撲(なぐ)る」のが国技ですか?  恥ずかしい暴力国家ですね。

相撲を国技と決めたのは誰ですか? 

相撲は民度を下げますから、放送禁止ですよ、NHKさん。

「しつけ」「指導」をされすぎた人は、過干渉になる。

過干渉というのは、干渉する相手への依存状態であり、異常な状態なんですよ。

それぞれの魂は、自分の内面に集中して、自分自身の課題に集中することが大事なのです。

クリエイティブな人は、内向的であり、他者からの過干渉を嫌います。

AB型の人は、人類で最も進化した意識をもっているといわれます。 すべての血液型要素を兼ね備えているからです。

AB型の人が、他者からの過干渉を嫌います。 このAB型のメンタリティは、「甘えたいO型」「共感を得たいA型」には、やや理解しがたいものがあり、人間関係に亀裂がしょうじたりします。

AB型の人は、「甘えたいO型」「共感を得たいA型」からすると、気難しい気分屋に見えます。

デイサービスの塗り絵とかゲームとかのレクリエーションがつまらないのは「押し付け」だから

デイサービスでやっている内容と、幼稚園・保育園でやっている内容は、似ています。

塗り絵とか、歌とか、ゲームとか。 そういうのがレクリエーションになっている。

それで、塗り絵とか、歌とか、ゲームとか、そういうのがつまらないんですよ。 何度も同じネタやるしね。

どうして、つまらないの? 

自分がいまこのタイミングでやりたい気分のヤツじゃないからだよ。

やるメニュー、やるタイミング、やる長さまで、ぜんぶ時間割みたいに指定されているわけ。

食いたくもない食べ物を、いまこのタイミングで、何分以内に食えだと?  それが非人間的な現代社会の生き方そのものなわけよ。

個々人固有の事情、スケジュール、思い。 それが無視されて、「外部クロック」に合わせさせられるわけ。

「時間割に合わせて行動」「5分前集合」とか、いわゆるパンクチュアルな行動を叩き込まれる。

これやってると、上からの直感が来なくなるんだよ。 いわゆる「遮断」が強化されるのよ、「外部クロック」に合わせさせられると。

学校教育の底意は、その部分にあるわけ。 「覚醒阻止」が学校教育の底意なわけよ。


循環がないんだよね。

メニューその他がお仕着せで、押しつけで、教育・サービスを受ける側の内発的な要望など採り入れてくれない。 フィードバックがきかない。 つまり循環がない。

「こういうメニューで1日を過ごしたい」という、自分で立てた計画に基づいて、1日の時間割を自分の内発性に基づいてこなしていく。 こういうのが、大事なんだよね。

結局、学校って、生徒からの要望を受け付けないでしょ? 

ぜんぶ先生が決めたり、学校が決めたりするものを「受け入れるしかない」という状態にされてしまう。 この環境が、内心から発した「内なる声」に基づき、自分で決めて、自分で行動していくという、自己決定系(self-determination system)を破壊する。

自己決定系を長い時間、使わないでいると、廃用性萎縮によって、「自分では決められない優柔不断な人間」になるわけよ。 「自分が将来やりたいことがわからない」的な。

だから誰かに相談するとかして、「しつけ」「指導」を他者に求める。 「しつけ」「指導」をするのが大好きな人は、これを「自分に頼られた」「自分が必要とされた」と狂喜乱舞。 だけど、この構図を俯瞰すると、共依存なのよ、単なる。

共依存は、腎臓病の方々の透析と同じで、いったん始めたら、やめることができません。

子供の頃から、親子が「しつけ」「指導」を通じての共依存の関係にあると、子供の自己決定系が未発達なまま成長してしまいます。 使わなかったから発達しなかった。 自己決定系が「纏足(てんそく)」みたいなものになります。

悲惨だよ、それは。 自分で「どう生きていいのか、決定することができない」のだから。

そうすると、大きな会社、役所など、自分の内面でない基準で選んだ、世間ウケのいい進路を選んだりするんだよね。

「しつけ」「指導」が欲しいのなら、内なる声に訊きなさいよ。

これを自分の胸に聞いてみなというのです。

じつは真我(分け御霊)は、心臓付近に宿っているのだそうです。 これがハート。

つまり、自分のハート(真我)に集中して、そこから「しつけ」「指導」「アドバイス」を得るのが本来的なのです。

常に自分の胸に聞いてみる。 それが、自己決定系を活性化させる道なのです。


「学校に行きたくない」の本質は「外部クロック」ではなく「内部クロック」で生きたいということなんだと思う。

学校は徹底して「外部クロック」を押し付けてくる。

結果として、学校教育が魂の生きる力を奪うわけよ。

タイミングにかんして学習者の主権を侵害しない

人間が目覚めるのは、その魂に固有のタイミングで目覚めるのですよ。

発芽を促進するとか、あり得ねぇから、マジで。

いまこのタイミングで改心したくない人に、いくら法を説いても無理なんだよ。 布教がうまくいかないのは、腹が減っていない人に、無理やりエサを食わそうとしているからだよ。

いまこのタイミングで改心したくない人に、いくら反省を求めても、形だけになる。 空念仏になる。

そして何よりも、「いまこのタイミングで改心させよう」というのは、「改心させる側」による「他者クロック」を押し付けられることなんだよ。 「押し付け」がおこなわれているのだから、ここでも循環がないだろ?  循環がないから、ダメなんだよ。

そして、押し付けることは、他者の内発性を否定する行為なんだよ。 その人の内なる気づきを待たずに、答えを先にいってしまい、得意がりたいバカが多い。

見て見ぬふりをしてあげる優しさをもとうよ。

気づかぬふりをしてあげる優しさをもとうよ。

けっして急がせない。

そういう鷹揚さを持とうよ。

他者に対して「大きなお世話」をしない。

他者に対して「余計なお節介」をしない。

内部が充実するには、相当な時間が必要。

だから待つ。

愛を以て放っておいてあげる。

「自由運動」をしている物体に、外力を加えない。 けっして邪魔しない。 そういうのが「不干渉の原則」=「自由意志の原則」です。

愛を以て放っておいてあげる。 それは「不干渉の原則」を厳守することを意味します。

内発的な意識に集中したとき(それが本来の人間の姿)、人間は最高度にクリエイティブになります。

「しつけ」「指導」というノイズが入ると、この「内向的でクリエイティブな磁場」が破壊されるのです。

ぶち壊しなんだよね。

「しつけ」「指導」が入ると、クリエイティビティが台無しになる。 例えば、経済産業省が業界に規制を加えると、業界の活性度が低くなり、「白けた業界」になることが知られているよね? 

「官僚が管轄し始める」というのは、その産業はオワコンなんだよ。

それで、どうして「しつけ」「指導」が入ると、クリエイティビティが破壊されるのか? 

それは、クリエイション、つまり、創作活動というものが、自己決定の連続だからです。 自分でどんどん決めていく。 これがクリエイションなんだよね。

内発的に自己決定を連続しておこなう。 これが創作活動なのです。

これは、ぜんぶ「内部クロック」に従って動くシステムだよ。

ところが、「しつけ」「指導」とか、「時間割」とかは「外部クロック」なわけ。

「学校に行きたくない」の本質は「外部クロック」ではなく「内部クロック」で生きたいということなんだと思う。

「しつけ」「指導」とか、「時間割」とかでやり込められると、この自己決定系(self-determination system)がいかれちまうんだよ。

自己決定系が損傷されると、生きる力が失われる。

つまり過干渉な親がいるだけで、お子さんの自己決定系が破壊され、お子さんの生きる力を奪うわけです。

そこで大事になってくるのが「親子の別居」です。

学校が「しつけ」「指導」「時間割」を押し付けてくる。 これに耐えられないようなら、不登校でもおk、なんだよね、じつは。

自己決定系が損傷されて、生きる気力を失い、自殺願望まで抱くようになる。 こうなるぐらいなら、学校は不登校でいいわけだし、息苦しい親のいる家庭から、子供を救助することも大事。


それで、「しつけ」「指導」とか、「時間割」とか、そういう「外部クロック」に合わせるのが好きな人は、クリエイションよりも、消費で自己表現をするわけよ。

何銘柄のコーヒーを飲んでるとか。 どういう自動車に乗っているとか。

いわば「付け羽根のピーコック」みたいになるわけ。

ピーコックって、クジャクだよ。 ハクキンカイロは、ピーコックハンドウォーマーっていうんだよね、関係ないけど。

クジャクのオスの羽根は、広げるとものすごくキレイ。 だけど、それに加えて、自分の羽根ではないものまで、その羽根の間に「エクステンション」みたいにして編み込むんだよね、人間は。

学歴とか、ブランド小物とか、高級腕時計とか、輸入自動車とか、豪邸とか。

そういう飾りを付けたがるんだよ、クリエイションのできない人間は。

真にクリエイションのできる人間は、案外、服装に無頓着だったりする。

結局、クリエイションの力が足りていない人は、使うだけの人、評価するだけの人、消費するだけの人になる。 「何々社の何々という製品がいい」ということを知っており、それを使っていることを通じてのみ、自己表現をすることができる。 それ以外に自己表現をする手段をもたい、みたいな。 けっしてクリエイトしないのよ、この階層は。

みずから志願しない人は仕事場に来なくていい

先輩が仕事をやっているのを見学する。

先輩は教えてくれない。

この状況が「内発的な真似び」=「内発的な学び」が最も発生しやすい状況です。

他者が実践しているのを見て、ミラーニューロンを活性化させる的なことです。

教えないで真似させる。 真似ばせる。 それが学びである。

教育という「外からの圧力」「非内発的アプローチ」ではダメ。

学習者が内側からプル型で、つまり、情報をみずからフェッチしてくるような態度。 この態度がない学習者は、学習現場に来るなよ、邪魔だから。

塾に来て、私語をするバカな生徒とか、夫婦気取りで授業中イチャイチャするバカップルの生徒。

こういうのが塾・予備校にはたくさんいます。

みずから志願せぬ人は、来なくていいよ、現場に。


どんな現場でも、やる気のない人は、現場に来られないようにする、フィルターは必要だと思う。

その現場にそぐわない、チャラい態度をずっとしている人は、そこにいるだけで、荒し行為になっているもんね。


職人の世界で、親切に教えないのは、「内側からプル型で、つまり、情報をみずからフェッチしてくるような態度」をもたないヤツは、職人の世界では淘汰されるから、いなくていいんだよね。

その業界として、いらない人材なのよ、「自分で貪欲につかみ取ろうとしないヤツ」ってのは。

だから「来るな」ってことよ、そういうやる気のないのは。

 
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