ゆきんこの勉強法 | 自修人

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16 Apr 2020

「自分で実践すること」「自分で問題を解くこと(演習)」が学習の中心であるべきだ

「先生の説明を黙って聞き、ノートを取る」ことが学習だと思い込まされてきた

「自分で実践すること」「自分で問題を解くこと(演習)」が学習の中心に据えられていない。

それが学力を増進することができない原因である。

学力は、「自分で解いてみる」「自分で作文を書いてみる」「自分で演奏してみる」などという、アウトプットを通じてつちかわれる。

アウトプットなきところに、学力の増進は、ぜったいにない。

勉強を急いでいるときは、「先生の説明を黙って聞き、ノートを取る」というプロセスを省略して、いきなり問題を見て、その問題の答えを見る。

結局、問題と答えを暗記する。

そうやって、「山といえば川」をセットで覚える。

そうして「山」を見たとき「川」が自動的に出てくるように練習する(アウトプットする)ということになる。

これが学習である。

手本を忠実に再現できるようにアウトプットする。

アウトプットされた中身の誤りを修正して、より正確なアウトプットを目指す。 この部分が、学習の本質部分である。

学校では、この「アウトプットされた中身の誤りを修正して、より正確なアウトプットを目指す」という部分を、まったく扱っていない。

そこは塾・予備校がになっている部分である。

したがって、学校では学習が進まない。

いいかえれば、学校をお休みして、塾・予備校に通っているほうが学力がつく、ということになる。

いいかえれば、学校は学習を妨害する、お荷物でしかない。

そういうことであれば、いったん学校を廃止してみたらどうか? 

漢字の読みを覚える必要はない|読みから漢字が書けるように練習すれば、その漢字は自動的に読めるようになっているから

学校の授業は、「漢字の読みを覚える」ような無駄なプロセスを踏んでいるように思う。

本当に学習を急ぎたいのであれば、問題と答えを暗記していったほうが早い。

そうやって、典型問題を一通り覚えてから、こんどは「考える問題」に入ればいいのである。

典型問題を覚える段階で「考える」というのは、学習を不効率にさせてしまうだけである。

英文読解の授業は無駄|和文から英文が出てくるように英文を暗記していけば英文読解も自動的にできるようになる

私は英文読解という分野が存在することが不思議でならなかった。

私は学校の検定済教科書を和訳して、和訳から教科書の英文が書けるように、ぜんぶ「英作文モード」で学習した。

そうすると、定期テストでは高得点が取れる。

しかも、模擬試験でも、不思議と高得点が取れる。

結局、英文を暗記すればいいのだ、という原理がわかった。

「漢字が書けるようにする」「和訳から英文が書けるようにする」というのは「能動的知識」「能動的回路」を鍛えるということだと思う

「能動的知識」「能動的回路」を鍛えることに集中すると、学習が効率化される。

それが、渡部由輝さん、和田秀樹さんが提唱してきた暗記数学の神髄だと思う。

「数学の例題とその解答をセットで丸暗記する」というのは、「和訳から英文が出てくるようにする」ということと、完全に同様のことである。

暗記数学を攻撃してきた人は、どこか誤解しているのだと思う。

典型例をたくさん知っていたほうが、複合的な問題を解くための手がかりがたくさんあるので、圧倒的に有利である。

典型例をたくさん効率よく覚える学習法として暗記数学があるわけだけれども、それを攻撃する人の意図がつかめない。

学校が自習阻害要因だという理由は、学校では学習者が演習という名のトライアンドエラーを繰り返す時間的な猶予を与えない点にある

「トライアンドエラーを繰り返すことが許された場」でなければ、学習が進むわけがない。

このさい学校は、発展的に解消し、「個別指導のオンライン学校」のような新しい姿に生まれ変わるべきだと思う。

「先生がライブで一斉授業をする」というスタイルは、インターネットが盛んになっている現代のスピード感にマッチしていない。

また先生自身が、ICTの世の中に後れをとっている場合もあるように思う。

つまり実社会では通用しないような、時代遅れの「先生」が「教える」学校というシステムは、もうダメなのではないか? 

学校の「先生」ではなく、実社会で何かに携わっている大人たちが、本当の先生になるのが本来的であろうと、私は思っている。

やはり、世の中のいろいろな部分で、入れ替えが必要だと思う。

通学・通勤させるのは「見張っていないとサボる」という疑念が主催者側において強いから

それは主催者側の波動が低いのだと思う。

学習や仕事は、きわめて個人的な営みである。

これまでは「サボっていないことを証明する」ことが世の中の中心であった。

そうやって「外側に意識を向ける」ように強いられてきた。

しかし、今後は違う。

自分で自分自身を管理できる人たちが増えてくる。

というより、これまでも、そういう人たちが多かったのだけれども、そういう善良な人たちまで、疑念の強い主催者側からの監視を受け続けてきたのだった。

そういう世の中は、もう終わりだ。