ゆきんこの勉強法 | 自修人

unchain yourselves

17 May 2020

愛と理解について

モンテッソーリ教育などで子供が泣き出すのは子供が秩序感を乱されたときである

それぞれの魂には秩序感がある。

子供にも、ちゃんと秩序感がある。

その秩序に沿って、その魂は活動を展開しているのである。

その秩序を他者が乱すことが「干渉かんしょう」である。

他者にむやみやたらと干渉するのは、他者を理解していないからである。

干渉されると、誰でも怒る。

干渉されたことによる怒りとは、その魂が大切にしている秩序感が侵害された件についての抗議である。


例えば、エコシステム(生態系せいたいけい)に人間が過剰に干渉したとする。

そこでエコシステムが「侵害されたので泣き出す」というのがあると思う。

それが[パンデミック]や[自然災害]であったりするのだろうと思う。

妖精さんたちが苦心して「地球に最適化された動植物」「その地域に最適化された動植物」をつくりあげたものが「自然」という精緻なシステムである。

妖精さんたちの秩序感に基づいて、「自然」という精緻なシステムが運営されているのである。

そこに無神経な干渉をする、ましてや、破壊するなどということがあったとすれば、妖精さんたちが「侵害されたので泣き出す」ということがあるかもしれない。 いや、あるだろう。

[パンデミック]や[自然災害]は、「自然が泣いている」という証拠だと思う。

自然の叫びをしっかりと聞き届け、反省し、「人間として出過ぎた部分」をしっかりと引っ込める必要がある。

他者に対して無神経な干渉をするのは、他者を理解していないからである。

「他者を理解する」とは、ある意味、「他者を愛する」ということでもあろうと思う。

「愛ある人」は「よき理解者」だけれども「中立な立場」をいつも保っている

「中立な立場」をいつも保っている人は、台風の目の中にいるので、おだやかである。

ニコちゃんマークの位置を探して、その穴にスポットはまるようにする。

ズレたらすぐ戻る練習を繰り返す。


「愛ある人」は「よき理解者」ではあるものの「誰かに一方的に肩入れする」ということがない。

「中立な立場」から公平・平等に行動する。

それは「ニコちゃんマークの位置を探して、その穴にスポットはまるようにする」ためである。

「誰かに一方的に肩入れする」と、ニコちゃんマークの位置からズレる。


「愛ある人」が「その対象のよき理解者」であるのは、対象を信頼しているからである。

「どんな理不尽なことでも、その人には、そうする理由があったから、そうしてしまったのである」ということを信頼することができる人は、寛容さと冷静さと知性をあわせ持った人である。

理解とは、寛容さと冷静さと知性をもって、「誰かに一方的に肩入れする」ことなく「中立な立場」から公平・平等に事態を受け容れるということだと思う。


「理不尽だ」と対象を断罪することからは、何らの進展も望むことができない。

「理不尽だ」と対象を断罪してしまうのは、自分の寛容さと冷静さと知性の発動が不十分なのだということである。

もっと寛容になり、もっと冷静になり、もっと知性を高めて事案を精査し、相手の事情を理解しようと努めれば、少しでも、相手をゆるすことができるようになるのだと思う。

「自分の最愛の人の命を奪った相手を許す」「自分自身の命を奪った相手を許す」というのは、最も困難なcompassionコンパッション(〔救いたいと願う深い〕思いやり、慈悲心)の発動場面であると思う。

compassionの意味・使い方|英辞郎 on the WEB:アルク

この「最も困難なcompassionの発動場面」において、実際にcompassionを発動することができたら大きな[意識の成長・進化]になることは間違いないと思う。

そこでカギになるのが、対象を理解しようとする意欲である。

「理不尽だ」と対象を断罪することは、理解へ向けての歩みを放棄することを意味する。

寛容さと冷静さと知性を全力で働かせて、対象をできるだけ理解しようと努めば、やがて理解できるようになるのだと思う。

そうやって、理解に至るまで努力することが、「自分の意識の範囲をジリジリと拡大すること」になっているのだと思う。

[非難しない]とは、「無関心であるがゆえに、相手にしない」ということではないのだと思う。

相手を理解したうえで、しかも「中立な立場」から公平・平等に事態を受け容れるということが[非難しない]ということなのだと思う。


愛とは、結局、「中立な立場から理解することができる範囲の幅広さ」と関係があるのだと思う。


相手を傷つけた。 それも結局、「相手を理解していなかった」という部分に原因がある。

相手をゆるすことができない。 それも結局、「相手を理解したくない」=「自分の信念がカバーする領域を広げることを拒否している」という部分に原因がある。

愛とはcompassion(〔救いたいと願う深い〕思いやり、慈悲心)と関係があり、それは[共振・共鳴・同期・同調]と関係がある。

「中立な立場を維持したうえで」という条件付きで、「対象と[共振・共鳴・同期・同調]を発生させる」ことが「理解する」「よき理解者になる」ということであろうと思う。

そのことが愛と関係が深いのだと思う。


「ゆるす」ための前提として、「対象の立場に立って」=「compassionを維持しながら」物事を見る、ということがあるのだと思う。

それが「対象を理解する」「対象のよき理解者になる」ということであり、そこから「ゆるし」が派生的に起こるだけなのだと思う。

単に「ゆるす」ということではなく、「対象の事情をむ」ことによって、必然的に「ゆるし」が導き出されるように思う。

表面的に「ゆるす」「ゆるす」とやっても、なかなかうまくいかないときは、「対象の事情を酌む」こと、「対象を理解する」「対象のよき理解者になる」ということが突破口になるかもしれない。