ゆきんこの勉強法 | 自修人

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18 May 2020

「中立で公平・平等な理解者」というポジションをいったん取り戻す|そこから何を取捨選択するか

「癒し(healing:ヒーリング)」が必要になる背景には「傷つける行為」がある

ヒーリングについて語られることは多い。

ヒーリングが必要になるような傷を受けるからには、「傷つける行為」が必ず存在するはずである。

「すべてが内的世界で発生している」という「自分軸の発想」「バシャールのような考え方」に立てば、次のようになると思う。

「あなたの信念が原因となり、あなたが自分で自分を傷つけているだけだ」

「誰もあなたを傷つけてはいない。あなたが傷ついているのは、あなたがそれを許可したからだ」


しかし実際には、その魂が現在「自分が属していると認識している世界」には、その世界において共通の信念体系があるのだと思う。

例えば、「相手から軽蔑あるいは無視されれば傷つく」といったようなことである。

「相手から軽蔑あるいは無視されても傷つかない信念を獲得する」のが理想ではあると思う。

しかし、その理想に到達するまでの過程で、「相手から軽蔑あるいは無視されれば傷つく」ということがあるのだと思う。

それは常識的に考えて「ふつう」だと思う。


少なくとも私の場合、「軽蔑あるいは無視する」といった、自分が相手を「傷つけるであろう行為」を自分からおこなうことは避けたいと思う。

そういう観点から、「何が原因となって、対象を傷つけるのか?」ということを考えてみたい。

「対象に偏見をもつ」「対象を否定する」「対象を見くだす」「対象を軽蔑・嘲笑する」「対象を差別する」などの行為をおこなうと、「対象を傷つける」とともに「自分自身も傷つく」と思う。

それは「対象」とは「自分自身が投影されたもの」だからだと思う。

相手に「バカ」と叫べば、自分自身に「バカ」と叫んだのと同じことになる。

そして「バカ」と叫んだことは、相手にも自分にも「悪い結果」を招くのだと思う。

そういう観点から、「対象や自分自身を傷つける行為」の基本にある仕組みを考えていこう。

結論からいえば、「対象や自分自身を傷つける行為」の基本にあるのは、「対象への無理解」=「認識力や洞察力の低さ」が基本にあるのだと思う。

「相手が大切にしている価値の否定」が「傷つく」「傷つける」という事象の原因の1つ

魔ではなく「宝」の2歳児 モンテッソーリの秩序感 (1/4) :日経DUAL

ある主体が、そのように行動する背景には、何らかの「こうであらねばならぬ」という「こだわり」や「秩序感」があるのだと思う。

その「こだわり」や「秩序感」に対して、「そんなことは重要ではない」「それは間違っている」などといった、「相手が大切にしている価値の否定」をおこなうことから、トラブルへと発展していくのだと思う。

「相手が大切にしている価値の否定」は、宇宙の「自由意志の原則」を踏み外した、重大な違反行為である。

「傷つく」「傷つける」という事象が発生する基本に、「相手が大切にしている価値を否定する」という「宇宙のルールにかんする重大な違反行為」があるのではないかと思う。

ただし、そこでいう「価値」が「他者が大切にしている価値を侵害しないかぎりにおいて」という条件は付けなければならないだろう。

これは法律における「権利の行使が許される範囲」と同じ考え方である。

「相手が大切にしているものをけっしてジャッジしない、侵害しない、破壊しない、奪い取らない」といった「基本中の基本」が守られていない点から、大戦争にまで発展してしまうのだと思う。

「不思議な力でヒーリングする」という「魔法」は一見すると魅力的だけれども、そこには支配・被支配、被依存・依存というワナがある。

だから、ヒーリングが必要でなくなるように、「傷つく」「傷つける」ということの本質や原因を知り、日常生活の中で、「傷つく」「傷つける」という現象が起こらないようにすることも大切だろうと思う。

「相手が大切にしている価値」を見取る「認識力」や「洞察力」が欠如しているから「相手が大切にしている価値を否定する」という重大な結果を招いてしまうのだ!

「相手が大切にしている価値を否定する」というのは、交通規則を破った結果、相手の自動車に、自分から衝突するようなことである。

「知らなかった」では済まされない。

「相手が大切にしている価値」を見取る「認識力」や「洞察力」は、「注意義務」ぐらいに、「働かせて当然」の意識なのである。

「相手が大切にしている価値」を見取る「認識力」や「洞察力」は、「追突しないために前を見ておく」ぐらいの、「働かせて当然」の意識なのである。

「追突された側が悪い」のか?  いや、「追突しないために前を見ておく」ことをおこたった「追突した側が悪い」のである。

「相手が大切にしている価値」を見取る「認識力」や「洞察力」が未熟であるならば、それなりの世界で修行してから出直したほうがいいと思う。

それぐらい、「相手が大切にしている価値」を尊重することは、基本的な約束事として大切である。


人間が自然破壊に加担しているとする。

これは「自然が大切にしている価値」「自然をつくりあげた妖精さんたちの価値」を踏みにじる行為である。

人間が自然破壊をおこなうことは、「他者が大切にしている価値を侵害しないかぎりにおいて」という付帯条件を踏み外している。


人間関係でトラブルが発生する場合も、「相手が大切にしている価値」を尊重する姿勢を忘れていたということが多いのではないかと思う。

「中立で公平・平等な理解者」というポジションを取り戻す

「現実という映像」に没入してしまい、感情を突き動かされる。

この状態の原因は、信念というフィルターをかけて、「現実という映像」を「解釈」している点にある。

「信念をポジティブなフィルターに書き換える」という手法をバシャールは推奨している。


「現実という映像」について、何の「解釈」も加えずに捉える「無色透明な素通しのフィルター」であるような信念は、存在するのだろうか? 

それに近いものとして、「中立で公平・平等な理解者」というポジションをとる場合に使う信念があるのだと思う。


無意識のうちに「無色透明な素通しのフィルター」が使える人は神だと思う。

私たちの場合、「無色透明な素通しのフィルター」は、練習して獲得する信念だと思う。

その練習の方法として、「相手が大切にしている価値」を尊重する姿勢を保ちながら、「中立で公平・平等な理解者」というポジションを演じてみるというのがあると思う。

もちろん、「中立で公平・平等な理解者」というポジションを自分の本心として選択してもよい。

そこは選択である。

ただし「中立で公平・平等な理解者」というポジションでは、感情が発生しないので動けなくなる。

感情が発生するからこそ、動くためのエネルギー、意欲が生まれるのである。

「感情に翻弄される」という「極端」も好ましくないけれども、「感情が発生せず、動くためのエネルギー、意欲が起こらない」というのもまた、困ったことである。

いったんは「中立で公平・平等な理解者」というポジションを取り戻すけれども、そこから何を取捨選択するかを自分で決定していく必要があるのだと思う。

貴方の感情は貴方の信念からやってきています。つまり、貴方の信念(観念)があるから感情が芽生える事になります。例えば、ある望まない事が起こって不快な感情が起こったとしたら、それは貴方の信念がその感情を誕生させています。よって、感情が起こる”もと”が変われば、誘発される感情も変わってくる事になります。

ある望まない現実を続けないといけないシチュエーションにある時、不快な感情を起こさせる信念を入れ替えてあげます。つまり、ポジティブな信念にすり替えます。これをする事で、たとえその思いが数十年続いていたとしてもたった数日で感情に変化が起こる事になるのです。

貴方の現実は貴方の思うままに変えてゆく事ができるのです。貴方にはそのパワーがあるのです。貴方の思うように自分の信念を変えていってください。殆どのネガティブ信念は、親や社会からもらってきています。”貴方以外の信念”にしがみつく必要は全くありません。貴方の欲しいままに変えてゆきましょう。

引用元: バシャール:自分の思うままに | the PLANET from NEBULA