自我の終焉―絶対自由への道―|クリシュナムルティ|読書ノート

『The first and last freedom』には2つの和訳本があり、『自我の終焉―絶対自由への道―|篠崎書林』という古いほうは絶版。

『The first and last freedom』のもう1つの和訳本である『最初で最後の自由|ナチュラルスピリット』は、和訳に意味不明の文が多いため、英文にあたって確認するなどしていたら、たいへん時間・手間を要しました。 私はもう諦めて、『最初で最後の自由』は廃棄処分とします。

ナチュラルスピリットは、篠崎書林から和訳の版権を買い取って、再版すればよいと感じました。

『自我の終焉―絶対自由への道―』の和訳は、こなれた和訳です。

第4章|自分自身の現状把握

世界の災いの作り手は、私です。

それは、私が投影されたものが世界だからです。

世界と私は表裏一体であり、私が変容すれば世界が変容します。

私が変容すれば、日常生活の1つ1つを見る観点が違ってくるので、その集積によって、世界が変容するのです。

例えば、私が変容すれば、私とあなたの関係性が変容します。

私とあなたの関係性の集積が、世界ですから、「私が変容する」 → 「私とあなたの関係性が変容する」 → 「それが集積されて世界が変容する」ということになります。

どんなに小さな領域でも、変容が起こるなら、それが世界へと波及します。

私を変容させるためには、私を理解する必要があります。

「自分のありのままを理解すること」へ向けての自己調査・自己観察は、霊的指導者がおこなうのではなく、自分自身がおこなうわけであるから、「自分が」やらなければ先へ進むことができません。

自分の内的探索がおこなえる存在は、自分自身しかいないのだから、霊的指導者は必要ありません。

霊的指導者への依存心は、自己調査・自己観察・「自分のありのままを理解すること」の妨げになります。

自己調査・自己観察・「自分のありのままを理解すること」は、「うそ偽りのない『自分のありよう』の現状把握を、けっして逃げずにおこなうこと」です。

それは、時々刻々と変化する自分自身を、絶えず克明に注意深く、そして真っ正直に観察し続けることを意味します。

けっして目をそらさない状態/目を離さない状態で、しっかりと観察し続ける。 これが自己調査・自己観察です。

自分が封印している「見たくない自分」であっても、恐れを乗り越え、死んだ気になって「これでもか」とハッキリ見ることがポイントになります。

ただし、自分の美点についても、自分の欠点についても、評価をしないことが大事です。

肯定・否定の枠組みをはずして、評価を放棄しながら、ただただ「自分の実際」を見るだけにとどめる。 しかも自分というものは、時々刻々と変化し続けているのだから、観察するとき、機敏さが重要な要素となる。 そういう「機敏さをもった究極の受動的態度」が必要です。

「理想」という外側の目標を設定し、その目標へ向かって自己変革を起こそうと努力することは、単なる逃避にすぎません。 それは「見たくない自分」から目をそらすためのごまかしであり、逃避です。 そしてそれは、「自分のありのままを理解すること」への到達を遅らせる回り道にすぎません。

スピリチュアルな指導者に頼ってはなりません。 そこでの安心感は、「自分が」「自分のありのままを理解すること」への旅を続けるための動機づけを失わせるのにじゅうぶんです。

他者から与えられた、出来合いの方法論に頼ってはなりません。 特定の方法論を使えば、望んだような結果が得られるでしょう。 しかしそれは、「自分のありのままを理解すること」とはほど遠い。 自分は時々刻々と変化し続けているのだから、「自分のありのままを理解すること」の方法を自分で模索し続ける必要があります。

「認識の主体」「知識や経験の蓄積」「欲の発信源」をザ・セルフといい、ザ・セルフが停止したときにこそ、本当の自由、本当に創造的な状態が訪れるのです。

真に創造的な状態は、ザ・セルフが停止しているときに訪れる。

ザ・セルフが失われて、自分が何者でもない状態になることは、誰でも怖いものでしょう。

しかしザ・セルフを手放してこそ、そこに自由と静寂があるのです。

経験を蓄積しないかたちで「自分のありのままを理解すること」を続けていればこそ、自由と静寂に到達できるのです。

いや、それもザ・セルフの「考えた」幻影だ。 到達するのではなく、「自分のありのまま」を、経験を蓄積せずに観察し続けているうちに、自然と自由に、静寂に、なっちゃうのです。

 
comments powered by Disqus