「指導」は「感じ取る力」「考える力」を奪い取るからダメなんだ

企業の電話カスタマーサービス(問い合わせ対応業務)についても、 役所の問い合わせ対応業務についても、 電話で応対する企業/役所の人間が「規則でこう決まっていますから」で押し通そうとするところからトラブルが発生する。

近頃は「クレーマー」という便利な用語ができたから、真っ当な問い合わせや要求をするユーザー/市民を「クレーマー」に仕立て上げてしまえば、電話で応対する企業/役所の人間は、自分の身を護ることができるような感じになっている。

「電話応対者の知識不足」「電話応対者のパーソナリティとして機転が利かない(マニュアル通りにおこなう能力しかない)」など、 電話応対者の対応範囲に限界がある中、「真っ当な問い合わせや要求をしたユーザー/市民に、すべてのしわ寄せ/我慢を押し付ける」ことから、トラブルが発生するわけなんだよ。

それで、電話応対者だけが悪いのかというと、電話応対者に規制を加えている「ルール」や「上席職員」による「抑圧」が、問題の本質である場合もある。

結局、宇宙は生々流転、千変万化なのだから、その場に応じて、水のように変幻自在に対応してゆける感じの電話応対者でなければいけないんだよね。

そういう柔軟な対応が可能になるのは、「電話応対の精神」が内発的な深度レベルまで「腑に落ちた状態」にできている人だけなんだわ。 それを邪魔する「ルール」や「上席職員」による「抑圧」があるとしたら、そういうものは排除する必要がある。

「指導」って、「電話応対の精神を腑に落ちた人たち」をつくらない。 その逆なんだよね、実際には。

「指導」って、「深い理由もわからず、振り付けられたままを演じる」ことが求められているだけなんだよね。 これを「教育」と称しているのだとしたら、噴飯物だよ。

現場を知らない「脚本家」が「マニュアル」を「作文」しただけ。 「指導」をおこなう側が、現場経験やノウハウの蓄積において「上」である保証はどこにもない。 現場の人のほうが「上」だということが多いんだよね。

「指導」って、本当に成り立つのかい? 

「指導」をする側が無能で、むしろ現場の人たちのほうが有能だということが多いと思う。

「本社の意向をきかなければ」など、制約が加われば加わるほど、現場の志気が下がっていく。

現場の電話応対者が、その場に応じてやってきゃいいんだから、「大まかなルール」だけ決めておいて、あとは現場の電話応対者にまかせればいいんだよ。

現場の市民が自主的にルールをつくり、そのルールは、その都度、動的に書き換えていくんだよ。 これが現実的な対応だ。

「指導」は、やめたほうがいい。

「行為者を監督する上位者を置く」というシステムそのものがダメなんだよ。

教育勅語って「戦争に身を捧げよ」ってことなんじゃないの? 安倍政権は日本を戦争へといざなう

教育勅語 - Wikibooks

大臣“教育勅語”発言ネット反応
10月03日 18時02分
新たに就任した柴山昌彦文部科学大臣が記者会見で、戦前、戦中の教育現場で使われた教育勅語について、「現代風にアレンジした形で道徳などに使えるという意味で普遍性を持っている」などと発言したことに対し、SNS上では、批判するツイートが投稿されています。
「教育をつかさどる閣僚の発言としては、軽率ではないか。教育がゆがめられていく怖さを感じる」「戦前、戦中、教育勅語がどういうふうに使われていたのか理解しているのだろうか。その歴史を踏まえた上で政治家は見解を示す必要があるのではないか」一方で、「教育勅語に普遍性を持つ部分があるのも否定はできない」と大臣の発言に理解を示す声もあります。
教育勅語をめぐっては、去年3月、政府が「憲法や教育基本法などに反しないような形で教材として用いることまでは否定されない」と閣議決定したことに対して、野党や専門家などから「戦前回帰だ」などと批判が出ていました。
「教育勅語」は、明治23年に発布され、国民が守るべき道徳として戦前、戦中の学校で朗読されていました。
天皇が国民に語りかけるという形式で、家族を大切にすることなどを説き、その上で「危急の大事が起こったならば、大儀に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家のために尽くすよう」求めていました。
戦後はこうした教えが「国家主義や軍国主義に拍車をかけた」と指摘され、昭和23年に衆参両院がそれぞれ教育勅語の排除や失効を確認する決議を行いました。

引用元: 大臣“教育勅語”発言ネット反応|NHK 首都圏のニュース

教育勅語は、明治天皇が「私に帰依しなさい」みたいに国民に語りかける、「『オレを上げていけよ、おまいら』の歌」みたいなものなんだね。

教育勅語は、「天皇崇拝を強要する歌」なんだよね。

結局、「戦争に命を捧げ、オレに尽くせ、国に尽くせ」みたいなことなのだと思う。

つまり「戦争で命を落とせ、オレに尽くせ、国民たちよ」と述べているんだよ、「朕」は。

まず波動の高い魂は「私に帰依しなさい」みたいなことはいわないよ。

大室寅之祐 - Google 検索

そもそも、「幸せな国家」のつくり方の発想が逆なのよ、大室くん。

国民1人1人、つまり、個々人がそれぞれの内的な欲求や真善美の観念に基づいて、自分の幸福を追求するわけ。

1人1人が「自分独自の幸福追求」をおこなえている状態こそが、すなわち、国民が幸福に暮らしているありさまなんだよ、大室くん。

だから大室くん、国民から何かを得ようとか、国民から何かを奪い取ろうとか、そういう「おもらいさん」みたいな発想じゃダメなんだぜ。

お金持ちは、それなりに、庶民に振る舞う(庶民をもてなす)ことが大事なんだ。

真珠王の御木本幸吉さんなんかは、お金をたくさん儲けたけれども、その分、バンバン振る舞った。

インプットがあれば、アウトプットがあるべきなのよ、大室くん。

大室くん、国民に何をしてくれたのよ? 

御木本幸吉さんなんかは、大きく儲けたけれども、大きく振る舞いをした。

大室くん、見習えよ、御木本幸吉さんを。

大室くん、アンタの歌は、もらうことばっかりじゃないか。

したがって、アンタは大物でもないし、本物でもないよ。

誰が天皇なんか崇拝するもんか。

内心優先・内心主導の大原則

「反省」しているかどうかは、当人の内心の問題でしかないし、「反省」は当人固有の権利なのである。

だから「反省」しているかどうかについて、周囲が立ち入ったことをいうのは、当人に失礼だ。

たとえそれが、罪人であったとしても。

「反省」するか否かは、当人に任せるしかない。

その結果として、当人が「低い波動領域」に属することになったとしても、それは当人の選択なのだから、放っておいてあげることだろう。

内心というのは、結局、ハイヤーセルフとの通信をおこなったり、真我(創造神の分け御霊)との通信をおこなったりする領域なので、現実問題として、誰も立ち入ることができない。

立ち入ることができない領域で「反省」がおこなわれているかどうかなんて、他者が知る必要はない。 本人が打ち明ければ別だけれども。

とにかく、「個として自立的に生きる」という姿勢をデフォルトにして、お互いに「立ち入りすぎない適度な距離感を保つ」=「相手の内心に基づく自由意志を最大限に尊重する」というのが、 今後の新しい世の中のマナー、エチケットになるだろう。

そういう意味では、現在の親子関係、現在の学校における教師と生徒の関係、現在の社会における上司と部下の関係は、「近すぎてキショい」というのが本当のところだ。

みんな「個として自立的に生きる」という大事な部分を失わされてしまっている。

「個として自立的に生きる」というのは、自由を謳歌するための前提条件だからな。

過度に依存的であっては、自由を満喫することなどできはしないぞ。

恐怖政治・恐怖支配・毒性政治は一方的だからダメなのよ

宇宙は回転・循環しているでしょ? 

だから「上意下達」のように、一方的に命令・意思伝達がおこなわれているようでは、その「系(system)」は短命に終わるんだわ。

上昇があったら下降があるわけよ。

「上意下達」があったら「下意上達」がないとバランスしないわけ。 これを「調和」というわけよ。

必ず対称性がある。 対称性のほころびから、崩壊が始まるわけさ。

だから安倍のやっている恐怖政治は、石破氏と小沢一郎氏によって破壊されるはずなんだわ。

「反省を求める」とは「懲らしめ」「へこませ」ることでしかない

へこんでいること、意気消沈していること、青菜に塩の状態にあること。 これを「反省している」と規定しているんだよ。 だからうまくいかないの。

吉澤ひとみちゃんは、しょげかえって、自己否定の状態になっているんだわ。 コレって、好ましい状態かい? 

吉澤ひとみちゃんを盛り上げないとダメだよ。

吉澤ひとみちゃんに、キュア(治療)とケア(安楽にする処置)をおこなって、元気な状態に戻してあげないといけない。

ミスをした人を断罪しても、社会全体の「痛み」「苦しみ」が増えるだけなんだ。


陰キャとかって、「指導」によってへこまされ続けた結果じゃないの? 

「反省」癖(へき)を身につけてしまったから、自己否定の塊(かたまり)みたいになるわけよ。 それが陰キャ、コミュ障の原因なのかもしれない。

「へこまされたくない」という恐怖心から、「逃げる、ごまかす、ウソをつく」という「卑怯な人格」が形成されるわけ。

「卑怯で陰キャでコミュ障」とかって、最低じゃん。

でも、それって、どこかで「指導」によってへこまされ続けた結果じゃないの? 

原因に立ち返って、キュア(治療)とケア(安楽にする処置)を続ければ、回復するわけですよ、心の傷も。

そうなのよ。

「指導」によって「反省」させるってのは、心の傷をつくるだけで、「卑怯で陰キャでコミュ障」の人格をつくるだけだから、逆効果なのね。

例えば、交通事故件数が減ったら、交通取締をしても、意味がないんですよ。

交通取締をして罰金収入を得ることが自己目的になっているだろ? 

だから警察は腐ってるんだよ。

学校教育は内発的な人格を排除する

1人の人間のマインド(生後に形成された考え方)の中に、以下のような「内発的」「外発的」な人格が両方とも存在しています。

「内発的な人格がどれだけ優位」「外発的な人格がどれだけ優位」など、個々の魂による個性はありますけれども、「内発/外発」は1人の人間の中に併存しています。

学校は、「上司・先輩のいうことをよくきく真面目なバカ」を養成する洗脳機関です。

「上司・先輩のいうことをよくきく」という部分で、「外発的な人格が優位であること」を、学校教育は児童・生徒に対して暗に求めています。

さらに、「上司・先輩のいうことをよくきく」という部分で、「上意下達的な情報伝達・意志実現のあり方」=「上からの命令なら、その行為が良識に照らして間違っていてもやる」という 「イヌ・サルの群れにおける個体どうしの序列」と同じ関係性に順応することを、学校教育は児童・生徒に対して暗に求めています。

野犬の群れが、どれだけむごたらしい「集団狩り」をするのか、知っておくべきです。 多摩川の河川敷で、集団リンチによって、若い子供が死亡した事件があります。 ああいった場合の人間の心理は、野犬の群れがむごたらしい「集団狩り」をするときの心理だと思います。

チンパンジーが群れをなして、他の群れを襲撃することをご存じですね。 チンパンジーは、きわめて凶暴な部分をもつ動物です。

チンパンジーの集団暴力 - Google 検索

こういう「イヌ・サルの遺伝子」を、アヌンナキが私たちの遺伝子の中に組み込んだのだと私は推測しています。

この「イヌ・サルの遺伝子」を活性化させる「アクティベーター」になっているのが、学校教育、あるいは、学校教育に付随した部活動(運動部)でしょうね。

サッカーに熱狂して、暴徒と化す人たちがいます。

こういうふうになってしまうのは、「独立した一個の人間」として、それぞれの人間が、自分の内発的な良識に基づいて行動するという部分が、強化されていないからです。

つまり「学校や部活に馴染んでいる人」の心は、「上の意向はどうだろうか」「上や周囲から、どう評価されるか」といった「外発的な要素」に支配されがちである。

「学校や部活に馴染んでいる人」の場合、「自分の内側にある良識(コモンセンス)や良心(コンシャンス)や良き習慣(グッド・ハビッツ)」よりも、「外発的な要素」を優先させた「選択」をおこないがちである。

家庭や学校でおこなわれているのは、「上からの命令、あるいは、同調圧力が存在するならば、その行為が良識に照らして間違っていてもやる」という「指導」=「強制服従させる洗脳」です。 これは「兵士(戦闘用奴隷)を養成する場合のやり方」ですね。

さらに「家庭」「学校」「部活動」「職場」などが「閉ざされたムラ社会」になっている感じが、どうしても拭えない。

結局、育児放棄(ネグレクト)、突如として集団で1人の対象を無視するイジメ(突如としてぼっちにされる)、運動選手をレギュラーから降ろす、突如として窓際族にされてしまう、突如として転勤を言い渡されるなど、「広い意味での村八分」という「陰湿な攻撃方法」が、「閉ざされたムラ社会」では、よく使われます。

実際のムラ・町内会でも、「氏子」である旧町民と、「氏子以外」の新規参入町民との間に、不当な待遇格差があったりする場合もあるようです。 裁判沙汰になることも珍しくないとか。

村八分と町内会(自治会)の密接な関係 伝統意識や神社とも関係が深い - 知識連鎖
氏子強制加入・会費徴収トラブル 氏神氏子制度は明治政府の捏造で伝統ではない - 知識連鎖

こういう「閉ざされたムラ社会」で「ヌシ」みたいな感じになっている人は、成長が止まっちゃった人なんですね。

だからそういう「政治」みたいなことにしか意識が向かわない。

例えば、研究で成果が出せそうにない大学教授とかが、大学での「人事」みたいな「政治」ばっかりに熱心になるケース。

そういうふうに「自分の能力に限界を感じている人」「伸びしろがない人」は「人事」「政治」みたいなことにしか意識が向かわなくなるんですよ。

これが「閉ざされたムラ社会」におけるイジメの原因になっているのでしょう。

「閉ざされたムラ社会」を解体するのはカンタンで、実力主義を基調としながら参入と退出を自由にして、「固定メンバー」が発生しないようにすることです。

つまり「循環」がないから腐るんですよ。

宇宙は回転・循環しているので、安倍がいつまでも政権を握りつつけているとか、そういう「固定」をやっていると必ずヒズミがどこかに表出する。


基本的に、現在の世の中でおこなわれている教育は「戦時体制の教育」いいかえれば「兵士(戦闘用奴隷)を養成する教育」です。

「上からの命令、あるいは、同調圧力が存在するならば、その行為が良識に照らして間違っていてもやる」という「頭も悪く倫理性も低い、命令・同調圧力に忠実な兵士(戦闘用奴隷)を養成する教育」が、「家庭」「学校」「部活動」「職場」などが「閉ざされたムラ社会」において現に展開されている。

それは結局、「ある独裁者/独裁的軍団に忠実な奴隷を養成する養成所」として、「閉ざされたムラ社会」が利用されているわけです。

いいかえれば、「閉ざされたムラ社会」の中に、「ある独裁者/独裁的軍団」を最上位とするヒエラルキー(ピラミッド構造)が形成されるように「洗脳」が行われる。 この「洗脳」が「指導」なんですよ。

そして「しきたり」「伝統」の大きな部分が「ある独裁者/独裁的軍団」を最上位とするヒエラルキー(ピラミッド構造)の維持存続をその目的としている。

ヒエラルキー(ピラミッド構造)維持存続を支えているのは、「上意下達的な情報伝達・意志実現のあり方」=「上からの命令なら、その行為が良識に照らして間違っていてもやる」というやり方を信じて疑わない「信仰」なんだよね。

それは「信仰」という「学習の結果」でもあるし、そもそも私たちの遺伝子には、「イヌ・サルの群れにおける個体どうしの序列」に馴染みやすいような細工がしてあるらしい。 自分はそう感じています。

ただ私の場合、「序列」というものが最初から嫌いで、そもそも家庭の「序列」に馴染めなかったので、みなさんが「序列」に順応しているありさまを、よく観察しています。

世間様の大人の水準に照らして考えて、私の両親は「かなり頭の良くない部類に入る」というふうに、12歳以降になって気づいてゆきました。

私は両親のことを「コイツらバカだ」と思っていました。

とくに父が「イヌ・サルの群れにおける個体どうしの序列」から抜け出せないパーソナリティだったので、そういう家庭の「序列」に馴染めなかったわけです。

同じ世界が、部活動や会社にもありました。 そして「世間の人間はイヌ・サルのような動きをするものなのだ」ということを知りました。

むろん、自分もそこに順応している部分もありました。

つまり自分にも「イヌ・サルの遺伝子」が息づいていることを感じ取っています。

しかし、年齢を重ねるごとに、人間はそれぞれ、自分の内側にあるCPUに従って、独立して生きるのが自然なのだと思うようになりました。

「他者のCPUに無理に合わせて生きても、結果として幸福は訪れない」ことがわかったのです。

「指導」=「強制服従させる洗脳」の結果として、「自分のCPU+自分のソフト」を使うことなく、「外部CPU+外部ソフト」を使うようになってしまいます。

つまり「親や先生のCPU」に合わせさせられる。 いいかえれば、「親や先生のCPU」に振り回される。 これが「家庭教育」や「学校教育」の実際の姿なのです。

「家庭教育」や「学校教育」は、「自分のCPU」でないから違和感がありますし、「自分のソフトを走らせて、不具合をデバッグしてゆく作業、いいかえれば、自己を編集してゆく作業」がおろそかになります。

「内側に集中し、内側を開拓する」のがほんらいだとすれば、「いちいち口出しをしてくる大人に集中力を奪われ、内側に集中し、内側を開拓するいとまを与えてもらえない状態に留め置かれる」のが、 「家庭教育」や「学校教育」なのですね。

子供は、放っておけ! 

子供は、自由にさせてやれ! 

結局、「自分のソフトを走らせて、不具合をデバッグしてゆく作業」=「自分のソフトを走らせて、自己を編集してゆく作業」というのは、 それが「知的成長」であれば「自学自習」になりますし、 それが「精神的成長」であれば「内省と行動」になるわけです。

「自学自習」や「内省と行動」は、あくまでも個人ベースの営みなのですよ。

いや、それだけでなく、「人生そのものが個人ベースの営みである」=「人生そのものがてんでんこである」というわけなのです(これは私の感想であり、また客観的な事実もそうだと思います)。

「自学自習」や「内省と行動」には、それを援助し、助言を与える「メンター」は必要だけれども、押しつけがましい「先生」「指導者」「コーチ」は邪魔なだけなんだよね。

未熟な「先生」「指導者」「コーチ」は、自分が寂しいから、あるいは、自分の人生そのものを愛することができないから、「指導する相手」=「慰み者」を探しているだけ。 それは「エナジー・バンパイア」そのものなんだよね。 「エナジー・バンパイア」というのは、霊的なエネルギーが吸い取られちゃうから、「一緒にいると疲れる」とか、そういう相手のことです。

そういうことだったら、「先生」「指導者」「コーチ」などもたずに「自学自習」や「内省と行動」をやったほうがずっと効果的なんだよ。

愚かな両親のいる家庭より、孤児のほうが幸せだと思う、ガチで。

結局、「私が自由に生きるのを邪魔する要素としての両親」「エナジー・バンパイアとしての両親」だったら、いないほうがマシなんですね。

「エナジー・バンパイア」が、その状態を脱して、「個として自立的に生きる」ことができるようになる。 そのプロセスにおいても、「自学自習」や「内省と行動」は、あくまでも個人ベースの営みなのですよ。

結局、「悪い状態から救ってくれる人は、自分自身しかいない」=「人生そのものが個人ベースの営みである」=「人生そのものがてんでんこである」ということなのです。

もちろん、穴に落ちた人が這い上がろうとしているのを助ける「メンター」は必要です。 しかし「メンター」が主役になって、「エナジー・バンパイア」がそれにぶら下がることを通じて「救済」がなされるわけではありません。

そういう「頼り切り」「乗っかり」というのは「エナジー・バンパイア」の性質そのものなのです。

「エナジー・バンパイア」が自発的に、「その状態を脱してマトモになりたい」という決意をする。

みずからが内発的に意図(インテンション)をもつ。

そこが出発点になっていないかぎり、「エナジー・バンパイア」が「個として自立的に生きる」ところにまで到達するできないでしょう。

「指導」というのは、結局、「先生」「指導者」「コーチ」などが「救済者ヅラ」して、「弱者」を「救済」するような構図で、教育というものを捉えている「未熟な大人」のすることなんですね。

「個として自立的に生きる」というところがベースになっていないことを「未熟」と形容しているのです。

「個として自立的に生きる」というところがベースになっていないから、集団化したとき、暴徒の一部になったりしてしまうのです。

「個として自立的に生きる」というのは、「自分のCPU」と「自分のソフト」にしたがって生きるということです。

スピリチュアルにいいかえれば、「内面の声に常に耳を傾けながら生きる」ということなのです。

こうして「内面を根本とする」=「内発的要素を根本とする」という生き方をする場合、人生の中心は、 あくまでも「内面の探索」=「自分のソフトを走らせて、不具合をデバッグしてゆく作業」=「自分のソフトを走らせて、自己を編集してゆく作業」 に置かれるべきなのです。

上記が「精神的な成長」にまつわること。

そして、「知的な成長」においても、同じ姿勢であるべきなのです。

例えば、「予備校から与えられたカリキュラム」「教師・講師・チューターからの指導」「日々発売されていく学習参考書」など、外発的な要素に振り回されて学習を進めると失敗するわけです。

あくまでも「自分の学力として、どの分野が得意なのか、どの分野の勉強が足りないのか」という「内面の探索」=「自分のソフトを走らせて、不具合をデバッグしてゆく作業」=「自分のソフトを走らせて、自己を編集してゆく作業」に重点を置くべきなのです。

また受験勉強については、「試験に出ない分野は切り捨てる」ということも大事です。 「リスクは取るためにある」ので、「その分野が出題されたらどうしよう」という恐怖に打ち勝ち、思い切って「出題率の低い分野・問題」「配点の少ない問題」は、バッサリと切り捨てる。 そうやって、「なすべきこと」を小さくしておいてから、「なすべきこと」をぬかりなく深掘りしていく。 そちらのほうが受験では有利だと思います。

とにかく、「己自身を根本とする」「個として自立的に生きる」「基本的には内発的に生きる」という部分をベースとすることが大事です。

私たちは「自分自身の生(せい)を生きるために、この世に転生(てんしょう)したのであって、親の期待など、他者の生を生きるために、この世に転生したのでは、断じてない」のです。

「先生」「指導者」「コーチ」などがおこなう「指導」というのは、「己自身を根本とする」「個として自立的に生きる」「基本的には内発的に生きる」ということを阻害する因子にしかならない。 「指導者」は往々にして、私たちが自分自身の生を生きることを邪魔する。 このことを知っておいてください。

対象が小学生(児童)のうちは、「自分の思い通りに動いてくれる」という感覚を得ることでしょう。

しかし、それに乗じて、我が子、あるいは、教え子の「人生を乗っ取る」ような卑怯な真似をするべきではありません。

つまり、親や教師などの「指導者」は、我が子、あるいは、教え子を、「自分が振り付けたように演じてくれるペット」=「自分の慰み者」として利用してしまうわけですよ。

結果として、我が子、あるいは、教え子は、「期待される自分になったかのように演じる」ような子になってしまいます。 この子との「親子関係」「師弟関係」は、いつか破綻しますし、この子が、犯罪者予備軍になるのです。

魂には、それぞれに「これをやるために、この世に転生した」という「独自のミッション」があるのです。

「独自のミッション」を遂行することを邪魔してはいけません。 それは宇宙の法則だからです。

子供は、放っておけ! 

子供は、自由にさせてやれ! 


安倍がなぜ憲法改正をしようとしているのか? 

戦争がやりたいんだよ、安倍は。

安倍・麻生は武器商人の手先なのよ。

創価学会が公明党に見切りをつけた結果として、沖縄県知事選で玉城デニー氏が当選したらしいです。

結局、創価学会の幹部は「憲法の戦争放棄の部分(第九条)だけは死守しなければならない」という思いに至ったのでしょう。

このまま創価学会が自公連立政権を支持し続けると、やがて「日本でも徴兵制が始まり、良心的兵役拒否は許されず、戦争をしたくない若者が戦地へ送られ、犬死にをさせられるような世の中」になります。

明治時代だったら、軍隊がクーデターを起こし、首相官邸・中央省庁・日銀等を武力制圧するところです。

あるいは、憂国の志士によるアサしねーションがおこなわれているはずですよ。

そういうのが、ジョンロックのいう抵抗権・革命権だわな。

石破氏が、年末までのいつかのタイミングで、何かを始めると私は予想しています。 ここで勝負をかけなければ、石破氏が政治家をしてきた意味がない。

もしも私が神だったら、石破氏が何もしない場合、東京に大地震を起こして、政府を機能停止にすると思いますよ。

いずれにしても、現在の世の中では、「公務員社会・会社員社会への適応力」と「軍隊への適応力」というのは、かなり近いものがある。

「公務員社会・会社員社会への適応力」と「軍隊への適応力」は、両方とも、 「上からの命令、あるいは、同調圧力が存在するならば、その行為が良識に照らして間違っていてもやる」という 「頭も悪く倫理性も低い、命令・同調圧力に忠実な兵士(戦闘用奴隷)を養成する教育」によって強化される適応力なんですよ。

自分の良識(コモンセンス)や良心(コンシャンス)や良き習慣(グッド・ハビッツ)に基づいた言動をとるのではなく、 「誰かに気兼ねして」「誰かの意向を汲んで」など「忖度(そんたく)」「斟酌(しんしゃく)」「阿り(おもねり)」の中で言動を決定するのです。

そういうふうに「誰か怖い人」という外発的要因を常に意識しながら、そこを基準に生きるように仕向けられる。 これが「指導」の結果なのですね。

家庭で「指導」をすると、親の顔色を見て言動をとる子供が育ちます。 彼・彼女は犯罪者予備軍です。

学校・部活で「指導」をすると、教師・顧問の顔色を見て言動をとる子供が育ちます。 彼・彼女は犯罪者予備軍です。

「指導」が、「家庭」「学校」「部活動」「職場」などが「閉ざされたムラ社会」において現に展開される。 結果として、社会全体が「息の詰まるようなムラ社会」になっている。 これが日本の現状なんだよ。


子供時代に結核で学校の欠席が多かった子が、長じて、偉大な文学者になる、偉大な芸術家になるなど、大成することがよくあります。

これは結局、学校教育が児童・生徒から、「内発的人格を育てる機会」を奪い、「創造性の欠如した児童・生徒」を大量生産する傾向にあることを物語っています。

いわば、学校教育による害悪(学害)を運良く免れた魂が、創造性を大きく伸ばしている傾向がある。 そのようにも見えるわけです。

闇の勢力の活動が減衰した後の「新しい世界」においては、教育(education)を停止し、自学自習の支援(self-learning support)を中心とする必要があるでしょう。

―― 内発的人格 外発的人格
肯定的側面
否定的側面
ポジティブ ネガティブ ポジティブ ネガティブ
努力の終点 自分が納得するまで妥協せずに努力を続ける 客観的には意味のない努力でも続けてしまう 他者からのプラス評価に満足して努力を中断する 他者からのマイナス評価に失望して努力を中断する
行動規範 内発的行動規範
内部クロック
外発的行動規範
外部クロック
行動の動機 自分がやりたいから
内的確信によって
他者に評価してもらうため
外界へのアピールのために
群れの形成 独りで行動することを好む
独りの時間を大切にし、独り遊びの中に安心と喜びを感じる
集団で行動することを好む
人付き合いを大切にし、仲間との交流の中に安心と喜びを感じる
創造性 創造性が高い 創造性が低い
個としての善悪 内心の[善]の観念に基づいて自発的に[善]を実践する 内心の[悪]の観念に基づいて自発的に[悪]を実践する 他者の目があると評価されるために[善]を実践する傾向がある 他者の目がないと誘惑に負けて[悪]を実践することがある
努力・労働 他者の目に関係なく自発的に努力・労働に励む 他者の目に関係なく自発的に努力・労働を放棄する 他者の目があると評価されるために努力・労働に励む 他者の目がないと誘惑に負けて努力・労働を放棄することがある
集団としての善悪 集団の動向に関係なく、内心に基づいて自発的に[善]を実践する 集団の動向に関係なく、内心に基づいて自発的に[悪]を実践する 集団の動向に合わせて受動的に[善]を実践する 集団の動向に合わせて受動的に[悪]を実践する
承認・愛 自分で自分を承認する
自分で自分を愛する
他者に承認してもらって初めて、自分を承認することができるようになる
他者から愛されている確信を得て初めて、自分を愛せるようになる

「体質と食事」「精神の傾向と学習スタイル」

現在の学校教育が、T型フォード式の大量生産タイプであることに、皆さん気づいておられることでしょう。

つまり「集団一括学習」が実現可能であるという誤った前提で、現在の学校教育は展開されているのです。


大川小学校(石巻市立大川小学校)では、教職員がバカだったから、多くの小学生が、自分の意図に反して「殺され」たのです。 「集団一括避難」というのは、実現不可能だったのですね。

大川小学校 - Google 検索

石巻市は、「しっかりと現実に向き合う」「しっかりと遺族に向き合う」ということから逃避して、ごまかしみたいなことをしていますけれども、そんなことでは、同じ悲劇が繰り返されます。


大事なことは、「津波てんでんこ」という大原則です。

大川小学校の教職員、とくに校長は、次のように指示するべきでした。

児童の皆さん、「校舎(鉄筋コンクリート)の屋上」でも「裏山」でも、自分が安全だと確信したところへ好き勝手に逃げなさい。 てんでんこに逃げなさい。 自分の命は、自分で護りなさい。


人生も、てんでんこであるべきです。

どういうことなのかというと、「グループのメンバーとしてしか通用しない芸能人」ではなく、「ピンで通用する芸能人」になることができるように。 そんなふうに、自分を育てていく人生でありたい。 そう思うわけです。

吉澤ひとみさんの件での、元モー娘。のメンバーたちの反応に、違和感を感じました。

吉澤ひとみさんの事件なのに、元モー娘。のメンバーが謝罪する点などに、「おかしな集団的思想」を感じました。

「独立した一個の人間」として、それぞれの人間が、自分の内発的な良識に基づいて行動する

こういう状態を目指すためには、「集団行動のクセがつきやすい集団的な教育」など「連帯責任は無責任」を生みやすい「人間の配置」は避けるべきなのです。

グループでお酒を飲んで、気が大きくなって、数人の集団が歩道に横に広がって、往来を邪魔するような歩き方をしている場合が目立ちます。 人間は群れることによって「連帯責任は無責任」の状態に至りやすいのです。

「鳥類の群れ(ムクドリの大群)」「魚類の群れ(アジ・イワシの大群)」「昆虫の群れ(イナゴの大群)」が、うごめく雲のように移動する。

そのときの「鳥類」「魚類」「昆虫」の動きのように、人間が動くことがある。 それは、集団化した人間が動くときです。

闇の勢力がつくりたかったのは、そういう「集団化して鳥類・魚類・昆虫の大群のように振る舞う人間」だったのでしょうね、きっと。

「集団化して鳥類・魚類・昆虫の大群のように振る舞う人間」を育成する場が、学校であり、とりわけ部活動の運動部であるというように、私は感じてきました。

先輩・後輩という序列の中で生きることを、運動部の中で強要される。 これに順応しやすい人は、会社員社会に順応しやすい人であり、 このタイプの人たちは、「集団化して鳥類・魚類・昆虫の大群のように振る舞う人間」です。

闇の勢力が、何を考えて学校教育をつくったのか、わかりますよね? 


人生は、てんでんこであるべきです。 ってか、人生はてんでんこなんですよ、もともと。

ですので、人生に備えての学習であるところの「教育」は、「教育」ではなく、「個々の児童・生徒ごとに異なるメニューによって構成された、自学自習(self-learning)」であるべきなのです。

ここから、2つのことを述べます。

(1)「個々人の体質に合った食事を選択することができる状態にすることが好ましい」

(2)「個々人の精神の傾向に合った学習スタイルを選択することができる状態にすることが好ましい」

両者は完全に相似の関係にある話です。


個々の魂によって、体質がそれぞれに異なる。 それなのに、学校給食という「画一的な食事」を与えることによって、自分の体質に合わない食事をさせられることがある。

最も深刻なのは、小麦アレルギーなど、特定の型のタンパク質へのアレルギーです。

まず、中央省庁が「同和地区出身者からは、絶対に官僚を採用しない」という同和差別をしています。

これとバランスを取るためなのか、地方公共団体レベルでの「同和優遇政策」=「同和利権」があり、その1つとして、「学校給食の関係職員」や「学校の用務員」などの特別な職種があるらしいのです。

生活保護と同和利権も、かなり深い関係があるようです。

よく公営住宅が川のほとりありますよね?  そこは同和地区だったことがあるようです。 もちろん「すべて」ではありません。

現実として、同和地区の方々が公営住宅にお住まいであることも多いようです。

さて、学校給食というのは、日本人に「小麦の味を覚えさせて小麦を消費させる」「牛乳の味を覚えさせて牛乳を消費させる」という米国(闇の勢力)の政策によって始まったようです。

さらにいえば、日本人の身体・精神の強さの源泉が米食(お米を食べること)にあるのだという背景がある。 したがって、「日本人に米食をさせない」という「意地悪」を米国(闇の勢力)の中の闇の勢力が考え出したのです。 学校給食を始めたのは、そのためです。

また「ミルクパラドックス」といわれるように、牛乳を飲むと骨が弱くなる。 人間には動物由来のカルシウムイオンは、なかなか吸収できないのです。 植物由来のカルシウムイオンこそが、人間にとって「身体に優しいミネラル」なのです。 植物由来のカルシウムイオンは、膜に包まれているようです。 身体の必要な箇所に植物由来のカルシウムイオンが運ばれたとき、その膜がはじける。 そうやって体内を運搬しないと、カルシウムイオンが身体を痛めてしまうようです。

そして、学校給食が1つの「同和利権」になっているということによって、「学校給食をやめたくてもやめられない状態」がつくられてきた。 つまり「学校給食をやめると、同和差別だ」というふうに、対立が起こるように、巧妙に仕組まれているわけです。

同和優遇策は、別のルートからおこない、とりあえず、学校給食を停止する必要があります。

(1)学校給食に牛乳が出る場合、放射性ストロンチウムに汚染された汚染乳がブレンドされていることが考えられる。

(2)学校給食にお米が出る場合、放射性セシウムに汚染された汚染米がブレンドされていることが考えられる。

(3)学校給食に魚などの海産物が出る場合、放射性ストロンチウムに汚染された汚染海産物であることが考えられる。

(4)特定のタンパク質等に対するアレルギーをもつ児童・生徒を、命の危険にさらす可能性がある(しばしば配食ミスが起こります)。

(5)集団食中毒が発生した場合、一気に多くの児童・生徒が被害にあう。

結局、学校は午前中で切り上げるか、弁当持参にするのが健全なのです。


「体質が違えば食事も違うはず」なので、学校給食は、やめるべきでしょう。

それと相似の話として、「精神の傾向が違えば学習スタイルも違うはず」なので、集団授業は、やめるべきでしょう、ということを主張したい。

学校教育に児童・生徒が放り込まれること。

それは、他律的な学習環境の中に放り込まれてしまうことを意味します。

いいかえれば、それは、「学習のメニュー(どの科目を学習するか)」「学習のタイミング(どういう順番で学習するか)」「学習のペース(どういうスピードで学習するか)」などを、他律的なかたちで決められてしまうことを意味します。

それでは、「頭脳の体質に合わない」という齟齬が出てきても仕方がありません。

齟齬を生じさせないためには、「自分から学び取りにいく」=「プル型(フェッチ型)の情報伝達」という「学習者として能動的に情報を獲得しにゆく態度でなければ情報が得られない」ような学習スタイルにする必要があります。

自分が最もやりやすい学習材料、学習スタイルを、自分でコーディネートしていくわけです。

他律的な学習環境である、「誰かに教えられる」=「プッシュ型の情報伝達」という「学習者としては受動的な態度でいてよい」ような学習スタイルではいけません。 これは、既製服というか、押し付けられたユニフォームなのですよ。

結局、自学自習の支援(self-learning support)を中心とする必要があるのです。

他律的な学習環境をもたらす「教育(education)」というものは、2020年頃に、廃絶するべきであろうと思っています。

自分の欲求に合わせて、自分のタイミングで、自分のペースで学習を進めていき、唯一無二の個性をもつ「修了生」として巣立っていく。 そういう自学自習の支援は、AI、ICT/IoTによって、実現可能です。

結局、「オーダーメイドの学習プラン」「個別メニュー」を組み、学習の工程管理をする道具としては、ビジネス用のグループウェアが最適ではないかということです。

カゴヤのサーバーでNetCommons(ネットコモンズ)も使ってみましたけれども、設計が微妙だし、開発スピードが遅すぎて、まったくアレだと思います。

いろいろな用途を前提に、グループウェアをいま探しています。

掲示板、チャット、通話、TO DOリストなど、一通りのコミュニケーション機能がそろってきています。

グループウェアのソリューションでは、サイボウズ社が最も信頼されているのですけれども、ビジネス向けなので、利用料が高額です。

サイボウズの無料サービスで、サイボウズLiveというのが残っていますけれども、2019年4月15日で終了します。

無料グループウェアサイボウズLiveは、
2019年4月15日をもって
サービスを終了させていただきます。
終了後はデータにアクセスができません。
早めにデータの書き出しをお願いします。

引用元: サイボウズLiveサービス終了のお知らせ | 無料グループウェア サイボウズLive

スタディサプリみたいな、会員制ビデオというのは、学習者が質問できなかったりして、うまく機能していない部分もあろうかと思います。

自学自習の支援は、スタディサプリのような「一斉授業をビデオに置き換えたもの」ではなく、学習支援者と生徒との間の距離が、もう少し近くて、生徒の数がもっと少ない「小グループ」の中で展開されるべきでしょう。

「10名前後を定員とするグループウェアに登録する」ことで、ネット上の寺子屋を無数に点在させてゆく。 そのような感じがよいかもしれません。

教育|業種別ソリューション|サービス|法人のお客さま|NTT東日本

ネット上の寺子屋というのは、「学習支援コミュニティ」ということになるのでしょう。

「コミュニティを形成する」というのは、リアル世界での集住だけではないと思います。

こういうグループウェアに参加する、地理的にはバラバラに点在する人たちの集まりも、コミュニティの1つでしょう。

刑務所は「外発的に更生させようとする」から「再犯者を大量生産している」

『反省』させると犯罪者になりますよ(その1) – 子育てメディア
『反省』させると犯罪者になりますよ(その2) – 子育てメディア

法務省そのものが、人権侵害・人権蹂躙をおこなう集団なのですよ。

法務省の職員である刑務官もまた、法務省の色に染まってしまい、罪人の肛門に高圧の水を噴射して、内臓破裂で死亡させたりしています。

消防署員(総務省管轄)の中にも、面白半分にコンプレッサーのエアを肛門から注入して、同僚を殺してしまったのがいました。

とにかく、法務省というものを解散させないといけません。

刑務所では、「こらしめ」はおこなわれても、「更生プログラム」は事実上、機能していないようです。


『反省』させると犯罪者になりますよ(その2) – 子育てメディア

以上のリンク先に、大事なことが書かれています。

結局、犯罪の裏側には心の傷があり、心の傷を癒やすのでなければ、いくら外発的な「修行」や「反省」をさせても、罪人は更生しないわけです。

つまり、更生は内発的に起こされるものなのです。

ですので、エンジェルや女神のような性質をもつ人が、罪人の心の傷を癒やすことを先行させる必要があるわけです。

その後、どうして心の傷が生じたのか。 その機序を知り、見つめる必要があると思います。

このとき「自分を責める」ような「反省」をするから、更生に失敗するわけです。

「自分を責める」とは、自己否定(自己承認の逆)です。

罪人の更生プログラム、あるいは、私たちのメンタル・ヒーリングというのは、同じ内容なのです。

罪人は、たまたま法律に引っかかって、刑務所に入っただけであり、私たちとて、ホワイトではない。

私たちにもけがれは大いにあるのです。

「肯定的」というのは、「明るくとらえて頑張っていくように考えること」ではないのよ。

「罪人の更生プログラム」や「メンタル・ヒーリング」における「肯定的」とは、「そうあること」「そうなしたこと」をしっかりと真正面から受け止めることをいいます。

つまり事実認定にかんして、自分に正直であることを「肯定的」「ポジティブ」といっているのです。

例えば、自分はブスだとか、自分は三白眼だとか、自分は胴長短足だとか、自分はペチャパイでまな板の上に乳首しかないとか、自分は鼻が大きくてニンニクみたいだとか、そういう事実がある。 これを「肯定的」「ポジティブ」に捉えるとは、単に「気にしない」とか、そういうことではないのです。

「事実そうである」「まさしくそうである」ということを、真っ正面からしっかりと受け止め、その事実を見つめるだけでよいのです。

事実認定をしっかりとおこない、事実を見つめた状態で、心が動かなくなるまで、しっかりと見つめるだけでいいのです。

単純に、事実を受容する。

単純に、事実を承認する。

「こんなはずではなかった」「こんな自分が嫌いだ」「親を恨む」とか、そういうふうに「抵抗する」「ジタバタする」から、おかしなことになるのです。

そうです。 「あるがままの事実に真正面から対峙して、抵抗しないこと」を「肯定的」「ポジティブ」といっているのです。

「電気が通るのに、抵抗がひとつもない状態」を「肯定的」「ポジティブ」といっているのです。

「言い訳」や「愚痴」について、見苦しい・聞き苦しいのはなぜ?  「そうあること」「そうなしたこと」にかんして、「事実そうである」「まさしくそうである」ということを、しっかりと真正面から受け止めていないから。 つまり「抵抗する」「ジタバタする」という「抵抗値を上げる行為」をしているから、直感的に「見苦しい・聞き苦しい」わけです。

神戸高塚高校校門圧死事件 - Wikipedia
校門の時計だけが知っている―私の「校門圧死事件」 | 細井 敏彦 |本 | 通販 | Amazon

それは、素直だとか、真摯だとか、誠実だとか、そういう表現になるでしょう。

心を鍛えていないと、この「素直に、真摯に、誠実に、事実認定をする」というのが、とても難しいのです。

だから、飲酒運転で事故を起こしたら、現場から逃げちゃうんですよ。

事故を起こしたら、その瞬間に観念して、「あるがままの事実に真正面から対峙して、抵抗しないこと」を「肯定的」「ポジティブ」といっているのです。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というのは、「リスクを取る」ことにまつわり、使われる場合が多いですけれども、私は少し違って、何か大きなことが起こっても、身を任せるような感じで捉えています。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ - Google 検索

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉から、「無駄に抵抗しないで、あらゆる現実を受け入れていこう」という感じのことを連想してしまいます。

※「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とか「今こそ別れめ」というのは、「こそ」~「已然形(エ段音)」の係り結びですね。


集団主義に陥ると、「あの人もやっているから、私も許されるだろう」みたいにして、どんどん「ゆるゆるのほう」「ラクなほう」へ流されていきます。

流されないようにするためには、個として立つことです。 つまり、集団から離れる(組織への甘えを断ち切る)ことによって、「襟を正して生きてゆかなければ即死するような状況」に自分を身を置きながら、ある意味、緊張して生きることです。

集団化すると、「裏金をつくって横領しても平気」といったような、そこいらの区役所・市役所・警察署・消防署のようなことになります。

やっぱり、集団化すると「連帯責任は無責任」になってしまいますよ。

個として立つ。 てんでんこに生きる。 このスタイルのほうが、人間ほんらいの生き方に近いような気がします。

「厳しい指導」を受けた人は転落しやすい

『反省』させると犯罪者になりますよ(その2) – 子育てメディア

きわめて極端なことをいうと、「指導」によって人格形成をした人は、犯罪者予備軍です。

そもそも「指導」には、「強者への服従」という「力の道」のコノテーション(含意)があるわけ。 そこには、「真実を教える発想」というよりは、「力づくで従わせる発想」があるんだよ。

「指導」をしたがるヤツにはバカが多い。 バカだから「指導」をしたがる。

仕組みを論理的に説明するだけの頭脳がない。 そういう人は「力の道」で押し切るしか能がないんだよ。

結果として、折檻・虐待などに走る。

よくDQNが我が子を殺しちゃうだろ?  アレなんだよ、アレ。

「指導」というのがエスカレートすると、「DQNの子殺し」に直結するんだよ。


「指導」には「強者への服従」という「力の道」のコノテーション(含意)がある。 例えば「指導死」という表現は、ごまかしだよね。

「埼玉中2男子自殺事案」は、たぶん「教職員らから生徒へのイジメによって生徒が自殺した『イジメ死』」だったのだと思う。 教職員が寄って集って生徒をイジメた。 結果として、埼玉中2男子を自殺に追い込んだわけだよ。

思い出してください。

野犬の群れがむごたらしい「集団狩り」をするときの心理。

チンパンジーが群れをなして、他の群れを襲撃するときの心理。

「イヌ・サルの遺伝子」が活性化した教職員らが、ハイチューを食べたぐらいの軽微なルール違反をしただけの生徒を、「集団で狩った」結果として、生徒を自殺に追い込んだのです。

「指導」のため。 教職員らは、こういう言い訳をするだろうし、そうでないと教職員らも気が狂うと思う。 まぁ、精神が狂ってるんだけどね、こういう「指導」をする人たちは。

現実には、イジメ自殺事件を起こした犯人が教職員らだった。 このことを真っ正面から受け止める必要があるのだと思う。

大事なことは、ここに「学校教育」「学校」「教師」の「素の姿」が出ちゃっているという部分なんだ。 「強者への屈服」を生徒に要求する。 これが学校教育や部活動への参加者に共通した「基調」「通奏低音」なんだよね。

「指導」の「本音」は「強者への屈服」をゴールとしている。

良識(コモンセンス)や良心(コンシャンス)や良き習慣(グッド・ハビッツ)を与えるために「指導」がおこなわれているのでは、断じてない。

ハイチューを食べた「犯人」を追い詰めて、「反省」させなければ「許さない」というのが、イジメ自殺事件を起こした犯人である教職員たちの心の中なんだよ。

この「反省」の中身とは、「強者への屈服」にほかならない。

「反省してない」とは、「強者への屈服に応じなかった」ということ。

「強者への屈服に応じるまで、長時間にわたり、しつこく問い詰める」んだ。

ん? 

代用監獄(警察署の留置所)? 

そうだよ、弁護士との接見も許されず代用監獄(警察署の留置所)に閉じ込められて、取調室で長時間にわたり、しつこく問い詰められる。 殴る蹴るもある。 日本テレビの「太陽に吠えろ」とかのやり方だよね。 ちなみに、「太陽に吠えろ」が取調室で容疑者をボコっているのを「カッコイイ」とか思っちゃうのがDQN。

実際に取調室で多いのが「食事抜き」とか「トイレに行かせない」とか。

いずれにしても、これが、日本の法務省公認の取り調べのやり方なんですよ。 「法律に基づいて職務を執行している」わけではなく、「怒りにまかせてボコっている」のですね。

先進国で、こんなことやっている国はない。

法務大臣は死刑執行にサインをするイヤな役割だから、下っ端の国会議員が法務大臣を押し付けられる感じ?  そんな感じなんだよね。

さて、この法務省による「暴力公認の取り調べ」が、文科省による「暴力公認の指導」に名を変えただけ。 「指導」の「本音」は「強者への屈服」をゴールとしている。 「反省とは、強者への屈服に応じること」です。

こういう世界なんですよ、日本は。

たかがハイチューだぜ。

遠足とか修学旅行とかでは食ってもいいんだろ? 

「ハイチューを食ったことで責められて自殺させる」って、何なのよ? 

「指導」などといった「上から何らかの価値観を押し付けるやり方」というのは、された側からすると、外発的なやり方で、必ず失敗する。

ソクラテスの産婆術のように、知的で謙虚な態度を以て、相手の内発性を刺激するやり方でないと、「指導」された側に、良き変化は起こらない。

埼玉中2男子、12人の教員から1時間半もの指導 その後自殺
0
1
2016年3月17日 5時0分
週刊女性PRIME
講演会で指導死について話す大貫さん

【指導死】一般に『指導』と考えられている教員の行為により、子どもが精神的、あるいは肉体的に追いつめられて自殺すること。
2000年9月30日、埼玉県新座市で中学2年生の少年が自宅マンションから飛び降り、若い命を失った。前日、学校で長時間の生徒指導を受けた直後のことだった。
真相の究明もされず、周囲から冷たい視線にさらされた両親。ある出会いをきっかけに立ち上がった。
先月、東京都内の施設で、コピーライターの大貫隆志さん(59)が講演した。テーマは『指導死』。生徒指導を直接の原因、あるいはきっかけとした子どもの自殺を指す言葉だ。’07年に大貫さんが名づけた。
’00年9月、埼玉県新座市で当時中学2年生だった次男の陵平くん(当時13)が10階の自宅マンションから飛び降り自殺した。学校で生徒指導を受けた翌日のことで、ほかに思い当たる理由がなかった。
’08年9月、大貫さんは文部科学省への申し入れを機に『指導死遺族の会』(現在の『指導死親の会』)を作った。以後、全国から寄せられる悩みを聞き、教育委員会との交渉や裁判支援をしている。
学校現場ではあまり話題にならない『指導死』だが、講演会には評判を聞きつけて参加した学校関係者も熱心に耳を傾けていた。
「陵平が死んじゃった!」
’00年9月30日深夜、母親から大貫さんに電話で連絡があった。病院からの公衆電話で、切羽詰まった声だった。
「え? そんな、嘘だろ?」
2か月前に離婚して、大貫さんは前妻と2人の子どもたちと別々に暮らしていた。電話では詳しい話を聞かなかった。そのため、以前に病院の検査で見つかった「しこり」が悪化したのだと思った。
大雨が降っていた。
「運転中はワイパーを最速にしていたんですが、自然と涙が出て、前方が見えにくくなったんです」
40分後、病院に着いた。病死だと思っていたが、警察がいてマンションから飛び降りたことを聞かされた。
陵平くんは人なつっこいが負けず嫌いな子だった。背は小さいが、父親の影響で小2からオートバイに乗り、レースにも出場していた。
「誰かがお腹が痛いと思ったときに使ってほしい」と、学校に薬を持っていったりもする優しい子だった。
小さいころから家族で一緒に登山をすることも多く、標高3106メートルもある長野県の北穂高岳にも登った。
「夜中、満天の星空に目を輝かせて喜んで」(大貫さん)
亡くなる1か月前、陵平くんとその兄を栃木県内の大貫さんの実家に連れて行った。
「私はあまりできないのですが、キャッチボールをしました。これが最後に遊んだ記憶です。小さいときから、陵平はひざの上に乗ってきました。そのときも、ひざ枕をして甘えてきました」
大貫さんは自殺の理由がわからないでいた。母親との関係は良好だったはずだ。一緒に住んでいないことで何かあったのか、何か見過ごしたのか。それとも学校で何かがあったのか?
「中学校は長男が通っていたころは荒れていて、廊下を自転車で走っている生徒がいました。でも、陵平のときにはもう沈静化されていた。生徒指導で管理が強まったのも一因でしょう」
中学では野球部に入った。当時、顧問の暴力行為が問題になり、ラジオ番組で取り上げられた。1年生の冬、顧問から「お前、誰がチクったのか調べろ」と言われた。同学年のまとめ役だった陵平くんは「嫌だ」と言って、部を辞めていた。
「今から考えれば、学校生活の圧力をいろんな形で感じていたのは確か。ほかの面も学校からの締めつけが厳しかったと思います」
なかでもお菓子を持ち込むことへの指導は厳しかった。「お菓子を認めるとタバコにつながる」との考えで指導が行われていた。
陵平くんの自殺後、大貫さんはすぐに「事実関係を明らかにしてほしい」と学校に申し入れていた。しかし、大貫さんと市教委、学校との話し合いができたのは10月30日。陵平くんが亡くなって1か月がたっていた。多少だが事実を知ることができた。
亡くなる前日の9月29日。2年生のひとりがベランダでお菓子を食べていた。その後、廊下ですれ違った生活指導主任が匂いで気づいた。
陵平くんのクラスでも担任が『帰りの会』で「ほかにお菓子を食べた者はいない?」と聞き取り調査をした。陵平くんは友達からお菓子をもらって食べたことを告白した。
ほかのクラスを含めて生徒9人が教室の半分の広さの『会議室』に呼び出され、12人の教員が指導に当たった。
「ほかにお菓子を食べた生徒はいないのか?」と教師に言われ、最終的には21人になった。指導中は生徒は立ちっ放し。1時間半に及んだ。指導の結果、生徒21人で『反省文』を書くことが宿題となった。そして、翌週の臨時学年集会でも決意表明をすることになった。
翌30日、陵平くん以外の20人は再指導を受けた。陵平くんは、以前から通院していたあごのしこりの検査で学校を休んだ。午後9時過ぎ、担任から電話があった。お菓子のほか、ライターの持ち込みもわかったという。
「29日の指導で、ライターを持ってきている子がいることがわかった。陵平くんの名前も挙がっている。来週、お母さんも学校に来てもらうことになる」
母親が陵平くんにこのことを告げた40分後、長男が大きな物音を聞く。10階の自宅マンションから陵平くんが飛び降りたのだ。部屋には『反省文』が置かれていた。
《ぼくは9月29日に昼休み中に××君たちとベランダに出て話をしていました。その時××君がハイチューを食べていて、僕も食べたくなってハイチューをもらって食べてしまいました。(中略)今ではなにをやっていたんだろうと思います。本当にすいませんでした。(中略)今後どのように罪をつぐなうか考えた結果 僕は2-5の教室を放課後できるかぎり机の整とんとゴミひろいをします》
また、乱れた字で書かれたメモもあった。遺書だった。
《死にます。ごめんなさい。たくさんバカなことして、もうたえきれません。バカなやつだよ。自爆だよ。じゃあね。ごめんなさい》
10月1日未明、陵平くんが亡くなったことを知った校長と教頭、担任が家を訪ねてきた。40代の女性の担任が反省文を見て「私にいただけないでしょうか?」と言った。大貫さんは怒った。
「動揺していたのか、生徒の大切なものだと思ったのかわかりませんが、意味がわかりませんでした」
翌2日、臨時全校集会が開かれた。大貫さんと母親は生徒たちの前で、陵平くんへの思いを話す機会を得た。その後、担任は大貫さんに「学校やクラスで何かあったのでしょうか?」と聞いてきた。
「何を言っているんだ!」と思った。むしろ、大貫さんが聞きたいことだ。神経を逆なでする対応が続いた。
11月になって、学校側は「聞き取り調査をした」と言っていたが、そのメモを見せるように言うと、校長は「見せるわけにはいかない」と拒否。書いてあることを読み上げさせると、アドリブで指導内容を読んでいた。紙には何も書いていないことがわかった。
12月、各学年のPTA役員と学校関係者が意見交換をする場が開かれた。校内暴力から立ち直ったことで評判がよく、学校側に立つ保護者の意見が相次いだ。
「今まで同様、いささかも揺らぐことなく、学校を全面的に信頼したい」
「この学校は本当に誇れるくらいにいい学校だと思います」
「学校がとった処置は正しいと思う」
加えて、その場にいた母親がバッシングを受ける。その前にテレビのインタビューに答え、番組で放映されたことで、「なぜマスコミを使うのか?」と責められたのだ。四面楚歌だった。
裁判も考えたが、学校からこれ以上の情報を得るのは難しく、ほかの生徒にもなかなか会えない。弁護士と相談し断念した。
「裁判をして陵平の友達に迷惑をかけるわけにはいかないと思った。ただ、あきらめる理由を探していたのかも」と、大貫さんは振り返る。
陵平くんの遺骨は母親からひと欠片だけもらった。「思い出のある場所に」と、一緒に登った北穂高岳に置いてきた。
「生徒指導の後、子どもが自殺する。こんな理由で死ぬのは、うちの子だけ……」
自分たちの育て方に問題があったのか? そうなると離婚さえも負い目に感じ、自問自答した。
だが’06年2月、励ましてくれた人たちの紹介で学校事故などで子どもが亡くなった人たちの集まりに行った大貫さんは、同様の理由でほかにも子どもたちが亡くなっていることを知る。参加するたびに新しい事例を聞いた。
その後、集まった人の中から「語り部になればいい」と言われたこともあり、『指導死遺族の会』を作ることになった。
『指導死』の定義は、「『指導』と考えられている教員の行為により、子どもが精神的あるいは肉体的に追いつめられ、自殺すること」。暴力を伴う指導は広義の『指導死』としている。
平成に入ってからだけでも同様のケースは63件ある。このうち85%は、指一本触れない生徒指導で子どもが自殺している。大貫さんは調査や相談を受ける中で、「指導死」の特徴が見えてきたという。
その特徴は、①長時間(長いもので4時間45分)②複数の教員による③精神的な暴力を伴う④冤罪型の指導⑤密告の強要⑥連帯責任⑦目的からはずれる⑧不釣り合いの罰則⑨子どもを途中で1人にする⑩教育的観点のフォローがない、といったこと。
特にほとんどの場合、フォローをしていない。「指導後にフォローするだけでも違う」と大貫さんは指摘する。
『指導死』の遺族の話も聞きに行く。普段は冷静だが、フラッシュバックすることもある。2年前、ある指導死遺族と教育委員会に行ったとき、過去の悔しさを思い出したという。
「亡くなって15年以上がたちますが“まだこうなのか”と思いました。あのときの思いは消えない」(大貫さん)
今月4日には、「教員による暴言・暴行によって不登校になった」という当時、小学生だった子どもの裁判で、証人尋問が行われた。中学生になった原告は泣きながら証言台で訴えた。
亡くなったときの陵平くんと同じ年齢だ。傍聴席で見守っていた大貫さんは「言いたいことを主張できて、よかった」と言い、目がうるんだ。
取材・文/渋井哲也

引用元: 埼玉中2男子、12人の教員から1時間半もの指導 その後自殺 - ライブドアニュース

とりわけ「学校」「部活動」における「指導」の中には、「指導」される相手(ここでは生徒)の心中に良識(コモンセンス)が芽生えるような育みをおこなうのではないのよ。

「指導」においては、強者である「教諭」の「いうことをきくかどうか」=「強者に屈するか否か」が最大の焦点なわけさ。 これが「力の道」の神髄なんだよね。

同じように、東京都で盛んにおこなわれている強圧的な職務質問でも、強者である「警察官」の「いうことをきくかどうか」=「強者に屈するか否か」が最大の焦点なわけさ。 これが「力の道」の神髄なんだよね。

米国が広島と長崎に原爆を落としたでしょ? 

広島の原爆は、米爆撃機B29「エノラ・ゲイ」から投下された。 落下傘が付いていて、落下傘でゆっくり降下する間に、エノラ・ゲイは急いで逃げた。 広島では、上空600mで原爆が爆発したんです。

エノラ・ゲイの乗組員の中には、原爆投下にかんして「戦争を終わらせるために仕方がなかった」という主旨のことを述べている。

ウソだよね。

「いうことをきくかどうか」=「強者に屈するか否か」が最大の焦点だったわけでしょ?  これが「力の道」の神髄なんだよね。 ぜんぶ「暴力性」が背後にあり、「暴力によって、いうことをきかせる」というのが焦点なの。 それ以外には、何もない。


結局、「指導」というのは低波動領域にとどまるようなやり方なのさ。

「指導」をする「指導者」も低波動だし、「指導を受ける側」も低波動にされてしまう。

「指導」というのは名ばかりで、実際には「恐怖政治」「恐怖支配」がおこなわれている。

「お父さん・お母さんに怒られるから、こうする」
「先生に怒られるから、こうする」
「先輩・監督・上司に怒られるから、こうする」

こういうのって、ムチによる動物の調教なんだよ。

それが「家庭」であれ、「学校の教室」であれ、「部活動」であれ、「しつけ教室」であれ、「指導」とは、程度の差こそあれ、基本的には「恐怖政治」「恐怖支配」につながるんだね。

大事なことは、「指導」をされると、された側の「自発性」が死んでしまう点なのです。 いいかえれば、「自発性を喪失した人格」=「依存的な人格」が形成されるんだね。

「指導」に服従する。 それは「強者への服従」でしかなく、そこには「学び」「気づき」などが、いっさい存在しないんだよ。

「こうあるべし」「こうするべし」というふうに、外発的に「倫理規定」を設けて、その外発的な条件に違反すると罰則があるような状況をつくります。

そうすると「他者の目を盗んで悪事をなす子」が育ちます。 その子が犯罪者予備軍です。

「力の道」を使って「強者に従わされる」かたちで押し付けられた「指導」によって「自発性」が死んでしまう。 「自発性」を失った結果として、「陰でルールを破る非倫理的な人格」が形成されるのだということです。 見ていないと、違法行為を行いかねない。

つまり「指導」によって、された側の言動に変化があったとしても、心から納得して、内発的にその「修正された言動」に至っているわけではない。 「納得のプロセス」が完了するまで待ってもらえない。

「指導」を受けた側は、「本来の自分」は変わらぬまま、表現形式という表象にだけ「結果」が求められている。 「こうあるべし」「こうするべし」というふうに。

つまり「本来の自分」とは乖離(かいり)した別人格を「演じる」よう求められるのが「指導」なんだよね。

「指導」を受けた子は、「心にもないことを口にする」「口と心が乖離(かいり)している」という状態にあります。

そうすると、「本来の自分」と「表現形式」との間に齟齬(そご)が生まれて、摩擦・軋轢(あつれき)がしょうじるのです。 そこに葛藤と抑圧が生まれ、やがてそのエネルギーが行き場を求めて、爆発するわけです。 その爆発が、違法行為・犯罪ということになる。

ホワイトな警察官は少数派であり、大半が、裏金作りに手を染めたブラックな警察官です。

どうして警察官が、これだけブラックなのかというと、「指導」によって規制されているからです。

「指導」は警察学校から始まっています。

とにかく、規制が多い。

そういう中で育つと、「内発的な良識(コモンセンス)」というものが醸成されてゆきません。


これは電気的なことなのです。

厳しい「指導(外発的要因)」があり、その「指導(外発的要因)」に反することをなしたら「罰を受ける(ネガティブな外発的果実)」。

厳しい「指導(外発的要因)」はない。 けれども、互いを喜ばせ合う「善意の交換(ポジティブな内発的要因)」によって、「喜びを受ける(ポジティブな内発的果実)」。

自分の内部に「善の習慣」が再生記憶レベルで深く定着するのは、どちらの生活スタイルでしょうか? 

後者の「善意の交換の結果として喜びを受ける」生活スタイルでしょ? 

「指導」というのは「罰を受ける」=「ムチでしばかれる」ことなのですよ。 しかも「外発的な世界のこと」なので、内面に「善の蓄積」が発生しないわけです。

ここで述べたいのは、DQN、警察官、運動部員などを「差別」して「糾弾(きゅうだん)」しようということではないのです。

厳しい「指導(外発的要因)」の世界で生育してきた人は、そこで「なされたこと(ネガティブなエネルギーを受けたこと)」を、「誰かに対して再発射してしまう運命にある」ということを述べたいのです。

「メンタル・エネルギーもまたエネルギー保存則の支配を受けている」というような感じのことです。 「ハラスメントの連鎖」「暴力の連鎖」「報復の連鎖」などなどは、「メンタル・エネルギーの保存則」によるものと推定されます。

「外発的な倫理観の押し付け」と「性悪説に基づく扱い」を受けてきた生育歴をもっている。 そういう人は、他者にも、それを向けてしまうのです。

中学校の内申書・内申点という仕打ちも、この法務省的な文化、いわば「罪人が刑務所で受ける仕打ち」と同じような仕打ちなのですね。

「学校の児童・生徒(文科省)」も「刑務所の罪人(法務省)」も「精神病棟の患者(厚労省)」も、似たような人権侵害・人権蹂躙を受けている。

厳しい「指導(外発的要因)」というのは「性悪説に基づいたDQN扱い」にほかならず、この扱いを受けた人は、 「リストカット、自殺未遂などの自傷行為に走る」とか「犯罪者になる」とか「水商売・風俗・AVに転落する」とか、あらゆる意味で自滅の道を歩む傾向があるのです。

厳しい「指導(外発的要因)」を受け続けるという生活スタイルは、「自尊感情(自己肯定感)をいつも否定された状態」に置かれ続けることを意味します。

「性悪説に基づいたDQN扱い」を受けることは、「自尊感情(自己肯定感)をいつも否定された状態」に置かれ続けることを意味します。

書店で万引きGメンみたいなババアが、あまりにも周囲をうろつくので、彼女を叱りつけたことがあります。 書店員にも文句を言っておきましたよ。

どうして?  「性悪説に基づいたDQN扱い」が横行すると、社会全体が「自尊感情(自己肯定感)をいつも否定された状態」に置かれ続けることになるからです。

警視庁(東京都の県警)の職務質問が、あまりにも強引で、行き過ぎている。 この批判が高まっています。

そう、闇の勢力は、私たちが「自尊感情(自己肯定感)をいつも否定された状態」に置かれ続けることを好んでいるのです。

闇の勢力が好きなネガティブな雰囲気というのは、警察官の職務質問の「あの雰囲気」なのですよ。 あの波動をよく覚えておいて、あの波動を避けるようにしましょう。

「指導」は犯罪者予備軍をつくる

「指導」は、陰で悪いことをする子をつくります。

例えば、PL学園の出世頭であるキヨは薬物中毒者です。

宗教的な背景をもつ、規律の厳しい私立校の出身者にして、この惨状です。

しかし、その一方でPL学園は、桑田真澄さんのような人格者をも生んでいます。

PL学園高校における教育は、生徒の人格形成に、何も影響していないのです。

もっと幼い頃に、あるいは、前世からの引き継ぎで、人格が固定されている部分がきわめて大きいからです。

「ムダ吠えワンちゃん」「飛びつきワンちゃん」など、問題行動のあるイヌのしつけでもそうですけれども、「長じてからの教育は、かなり難しい」のです。


子供に厳しくしても「良き人格形成」にはつながらない割に、「指導」が陰で悪いことをする子をつくるという副作用は生むのです。

日生学園は「スパルタ教育」を改めたでしょ? 

日生学園 - Google 検索

伸学社(入江塾)も、入江塾長が児童・生徒のケツを竹刀で叩くような「スパルタ教育」を現在ではやっていないでしょ? 

灘高→東大合格率ナンバーワン 伝説の入江塾は、何を教えたか | 入江 伸 |本 | 通販 | Amazon

「軍隊式」「スパルタ教育」「指導」「折檻」などは、児童・生徒の心に抑圧を生み、その抑圧されたエネルギーが犯罪・違法行為というかたちで解放される仕組みになっているのです。

「兵隊やくざ 俺にまかせろ」(公開年月日 1967年02月25日) 予告篇 - YouTube

PL学園の野球部が廃部に追い込まれたのは、度重なる暴力事件、あるいは、生徒(未成年者)による喫煙など、犯罪・違法行為が何度も繰り返されたせいです。

「体罰」「制裁」「指導」「折檻」「虐待」は、みな同じ「暴力」です。 どんな意図が背景にあるにせよ、行為が「暴力」であれば、「体罰」「制裁」「指導」「折檻」「虐待」はすべて「暴力」と言い換えることができます。

暴力が振るわれると、心も傷つきます。 この心の傷を修復するために、報復が行われます。

先輩から受けた暴力を、後輩に仕返しする。 このときの口実が「体罰」「制裁」「指導」「折檻」「虐待」などですけれども、内容は「暴力」です。

「暴力」は連鎖します。 受けた「暴力」による「抑圧された心のエネルギー」は、誰かに向けて「発散」「解放」されます。

この「暴力の連鎖」が、スポーツの世界、あるいは、警察・消防・自衛隊などの世界では、世代から世代へと受け継がれているのです。 「指導」や「教育」に見せかけながら、先輩から受けた暴力を、後輩に仕返しする。 これがドミノ倒しのように、先輩から後輩へと連鎖していく。 終わりがない。

PL学園の野球部でも、結局、「指導」や「教育」に見せかけながら、先輩から受けた暴力を、後輩に仕返しするということが行われていたのでしょう。

平和が訪れたら、スポーツの世界、あるいは、警察・消防・自衛隊など「暴力を基調とする組織」は、「暴力の連鎖」の伝統を断ち切る意味で、ぜんぶ解体し、解散させる必要があります。

「指導」は、陰で悪いことをする子をつくります。

「指導」はDQNを生みます。

ってか、高校生は勉強して大学行けよアホ! 

「職業野球選手の養成所」と化した高校なんて、勉学の場ではないよな? 

とにかく、スポーツの世界と、「指導」とDQNは、セットだわな? 

スポーツの世界と低偏差値の私立高校は、下表の右側の列そのものだわな? 

相撲界も右側の列だろ? 

このDQNを減らす運動こそが、今後の教育改革の課題なんだね。

スポーツと学校との分離。

スポーツはクラブチームでおこない、学校の運動部が甲子園で戦ったりするのをテレビ中継するなよ、NHK! 

NHKが甲子園や大相撲を放送するから、このDQN世界が形成されているんだよ。

NHKと文科省を解体して、「文教領域」と「スポーツ領域」は、中央省庁の管轄を完全に分離する必要がある。

文科省が「文教」と「スポーツ」を一括して管轄しているのがおかしいのだよ。

「文教」と「スポーツ」との明確な分離。 これがポイントだぜ。

―― 歓待と愛おしみ しつけと体罰
刺激による鍛錬 内心に存在する善・光の領域を
活発に使うことを求められる
内心の善・光が強化される
内心に存在する悪・闇の領域を
活発に使うことを求められる
内心の悪・闇が強化される
場所 桃源郷 監獄・ブタ箱
たこ部屋・女郎部屋
波動領域 高波動領域 低波動領域
心の状態 平和と歓喜 恐怖と怒り
待遇 抜擢と厚遇 糾弾と叱責
学びと成長 現状への肯定
気づきによる内発的な「言動の自己修正」
現状への否定
外発的な「言動の矯正」
問題解決の手法
養成される人
機序・原理を知り、原因を調べる謙虚な態度
未知の事態に遭遇しても
動的に機転を利かせることができる人
「こうあるべし」「こうするべし」を
上から押し付ける
思考停止のマニュアル型人間
人間関係モデル 独立的で自由な人間関係 脅迫に基づく支配・被支配の連鎖関係
心中でループされる内容 自分の長所をより伸ばしていく意欲 不適切な自分を否定する「反省」
求められている見返り 見返りは何も求められていない 強者への服従を強く求められる
与奪 惜しみなく与える 隙あらば盗み奪い取る
行き着く人格 独立した愛のある人格 依存的で傲慢さと卑屈さをもつ人格
行動の動機 他者および自己の喜びと感謝 懲罰に対する恐怖
心的態度 共感・献身 敵対・保身
アクティブ
パッシブ
能動性 受動性
ポジ・ネガ ポジティブ ネガティブ
偏差値 高偏差値 低偏差値
階層 市民 DQN・犯罪者予備軍
児童虐待・折檻・家庭内暴力
体罰教師・警察官・刑務官等
視線の解釈 目を合わせると「親愛の情」と理解する 目を合わせると「敵対のサイン」と理解する
見つめられた 睨まれた
私のことが好きなのかな ガン飛ばしやがって!

指導者がダメ人間をつくる

「放任主義の家庭ほど、子供がしっかりする」というものがあります。

「指導者が指導する」という環境をつくると、そこのメンバーは、指導者という外発的要素に意識を奪われる結果になります。

ほんらい子供たちは、内発的要素にだけ注意が向かっているものです。

親からの過剰な「指導」、あるいは、あまりにも早くからの行き過ぎた幼児教育によって、「子供が内発的要素にだけ集中しておくべき時期」に、強圧的に「外発的要素」に意識を向けさせられる結果となります。

赤ちゃんが生まれたての頃は、前世を覚えており、自分自身とつながっており、汚れを知らないのです。

その赤ちゃんは、この世との接触を通じて、少しずつ汚れを身につけていきます。

この「内発的な世界」から「外発的な世界」への「意識の中心の移り変わり」は、「汚れを身にまとっていくプロセス」であると同時に「成長」でもあるわけです。

「汚れを身にまとうことが巧みな、器用な子」が「天才子役」と呼ばれたりすることになります。 「大人が喜ぶような子供の言動を計算して演じられる子」ですね。

最初は「求められる理想の子供像」を演じさせられているのですけれども、しだいに「演技」が「真実」になり、結果的に「自分の本音がわからなくなる」わけです。

例えば、恋人や婚約者に「悪い顔はできない」ということで演技を続けて交際してきたけれども、結婚するという決断をするとき、「すべてが本音とは異なる演技であった」という現実が襲ってきて身動きが取れなくなるとか。

とにかく、「自分の本当の気持ち」を前面にドンと押し出すことができない場合、ものすごく精神的に「やられる」わけです。

ましてや、子供という弱い立場の魂が、親という「生殺与奪の権限をすべて握っているような人」から、さまざまな「押し付け」「抑圧」を受け続けた場合、子供の心は、ねじ曲がってしまうことでしょう。 この子供が、犯罪者予備軍なのです。 刑務所に入っている人は、だいたい、このパターンらしいです。

そして、学校教育や文科省や教育委員会は、「大人が喜ぶような子供の言動を計算して演じられる子」を求めているわけです。 彼らは、犯罪者予備軍をつくりたいわけでしょう。

「天才子役」とは、「人間失格|太宰治」の主人公みたいなものです。 鉄棒でわざと失敗したところを、あの呆け者と思って主人公が見下していた竹一に「ワザ、ワザ。」と言って見破られる部分が見所です。


結局、子供時代に、「内発的世界に集中していられる時間」をできるだけ少なくさせることが、学校教育の狙いなのです。

私も子供の頃は、暗闇を見つめていると、七色のつぶつぶが空気中を漂っているのが見えていました。 そして、「内発的世界に集中していられる時間」が奪われるうちに、それは、やがて見えなくなってしまいました。

「内発的世界に集中していられる時間」というのは、溶岩が地表に吹き出して、少しずつ層を重ねていき、「中身の詰まった火山」を形成してゆくために使われるのです。

他方、両親、先生などの大人、あるいは、お兄さん・お姉さんといった先輩方から「指導」されると、「内発的世界への集中」が途絶してしまい、外発的世界へフォーカスの中心が移ってしまうのです。

この外発的世界では、自分で設計したのではない「張りぼて」をあてがわれて、この「張りぼて」の内部を溶岩で埋めるよう、強要されることになります。

例えば、親が小学受験に熱心で、こぐま会の教材をやらされているとか。

小学校に入学すれば、教室にずっと座っていることを強要されます。

中学受験に熱心な親御さんも、かなり危険です。 統計によると、中途半端な私立大学の出身者が多いみたいですよ、私立校の中学受験に没頭する親御さんは、 結局、自分が勉強において「負け組」であったルサンチマンを、子供を通じて解消するようなことをしたいのでしょう。

逆に、親御さんが高学歴とか、高収入とか、「人生の勝ち組」である場合、お子さんは公立校へ行かせることが多いようです。

学校とか、そういう「指導する場」というのは、「指導する人」を中心に考えられ、設計されているだけで、「指導を受ける側」のことは、まったく考慮されていないわけです。

ズバリ、「指導者」と称する人が来ると、それぞれの学習者が内発的に学習している、その学習を邪魔することにしかならない。

内発的な学習においては、それぞれの学習者が、自分のクロックに合わせて、自分のペースで学習を進めている。 この状態が安定している場合、「指導者」は邪魔してはならないんだよ、学習者を。

学習の場は、「指導者がその活躍ぶりを見せつける場じゃねぇんだよ」ってことを、よく覚えておけよ。

「指導」が入ると、「外発的要因」というノイズに意識が奪われて、学習者の学習が邪魔されるんだよ。

これは、産業界で「経産省が規制を始めると、業界が白けて、業界が不活性化される」というのと似ている。

邪魔な「指導者」は去れよ! 


同じ勉強をするのでも、自分の内発的なキッカケから「勉強に対するやる気」を出した人は強いよ。

他方、いまやろうとしているところへ、親から「勉強しなきゃダメだよ」とかいわれると、そのほうがやる気がなくなるんだよね。

「指導者」による「指導」って、この「ウゼぇ上からのアドバイス」なんだよな、結局。

ウザいだけで、まったく役に立たない。

いや、やる気がなくなるから、放っておいてくれよ。


「自分の本音」と常につながっておくことが大事だよ。

そして、「自分が本音レベルで好きなこと」を追究していって、それが結果として世間から評価される、という「あり方」を目指す必要がある。

「世間から評価されるために、これこれをやる」というやり方だと、その世界に入っても、「自分が本音レベルで好きなこと」としてやっている人の後塵を拝するだけになる。 「心底、そのことが好きで、嬉々としてそのことに没頭している人」には、絶対にかなわない。

つまり「外発的な動機」や「計算」から、自分が取り組む対象を選ぶというのは「違う」んだよ、たいていのケースにおいて。

そうやって、「世間から評価されるために、これこれをやる」=「演じて見せる」というやり方をしてしまうのは、「指導者の以降を忖度(そんたく)するクセ」が、家庭や学校で身についてしまったからなのだと思う。

その背景には、「指導」といったものがある。

「指導」が、それらを受けた人々の内面に「自己との乖離(かいり)」をもたらす。

つまり、「指導」を受けることに慣れっこになり、「自分の本音とつながっていない状態」にさせられてしまう。

「世間から評価されるために、これこれをやる」=「演じて見せる」といことを、イヤイヤやっている子でも、計算してうまく積極的にやってる子でも、「自分の本音とつながっていない状態」というのは同じです。

両方とも、いつか破綻(はたん)するような生き方をしている。


それから、「指導」を受けることに慣れっこになると、「解答は自分の内部=内心にはない」「解答は自分の外部にある」という刷り込みを受けてしまう。

だから、進路について、「親や先輩や先生に相談する」などという、最も情けないかたちになってしまうんだよ。

そうなんだ。 「指導」を受けた子たちは、自己決定能力を失ってしまうんだよ。 だって「自分が本音レベルで好きなこと」がわからなくなってしまっているわけだから。

そして、「指導」において、「正解」を先に言ってしまうバカが多い。 賢そうに見せたいのだろう、半端物めが! 

試行錯誤、紆余曲折、失敗をも含めて、その魂の大事な経験なのだから、児童・生徒が「自分で答えを見つける」前に、「オチ」を先に言うなよ、バカ! 

サスペンス映画のネタバレをするバカと同じだぜ! 

そこに「学びの感動」「気づきの感動」がなくなるじゃないかよ。

 
comments powered by Disqus