「松ぼっくり拾い」と「くり拾い」

文系は「松ぼっくり拾い」をさせられる

松ぼっくり(松かさ)の実は、松の実といわれ、松ぼっくりのカサの間に「薄皮+松の実」としてはさまっているようです。

松ぼっくりと松の実の違いって?| └ さんぽで遊ぼう

いずれにしても、松ぼっくりの大きさからすると、松の実は、ごくごく小さいものです。

私大文系の受験では、科目が英語・国語・歴史であるところが多く、国公立だけ数学(数学 I+A/II+B)や理科が追加的に課せられます。

文系のメイン科目は、「英語」と「古文」と「歴史(世界史Bまたは日本史B)」です。 「地理B」や「倫理,政治・経済」が選べるところもあるでしょうけれども。

英語と古文と歴史(世界史Bまたは日本史B)の中で、役に立つ科目は英語だけです。

私大文系の大学受験というのは、「受験科目がほぼ役に立たないクソ科目」で構成されているわけです。

私大文系の受験では、「役に立たない知識を身につける競争をさせられる」。 競争に勝って、早稲田に受かった、慶應に受かったと喜ぶ。 そうだとしても、「受験科目がほぼ役に立たないクソ科目」を勉強させられて、その中で競争した結果にすぎない。

受験勉強をしても、ほとんどウマミがないのが、私大文系の受験なのです。

私大文系の受験の勉強は、まるで松ぼっくりを拾う競争です。

意味のないものを拾う競争をさせられているわけです。

理系は「くり拾い」をさせられる

早稲田や慶應の文系学部を目指すよりも、四工大(芝浦工業大学・東京電機大学・東京都市大学・工学院大学)を目指したほうが就職・再就職に有利です。

東京は放射能だらけなので、これらの大学へ実際に進学することを推奨しているわけではありません。 これは、例え話です。 「東京の事情で考えれば、そうなる」というふうに読み替えてください。

イイタイコトは、「高偏差値の私大文系」よりも、「中偏差値の私大理系」に進学したほうが、就職・再就職に有利なので、おすすめだということです。

私大理系(工学系)の受験科目は、たいてい「英語」と「数学(数学 IIIまで)」と「理科(「物理基礎+物理」または「化学基礎+化学」)」でしょう。

理系なのに数学 IIIがない大学は、アホばっかりしか入学しないので、やめといたほうがいいです。

さて、私大理系の受験科目は、ぜんぶ役に立つ科目です。

土木工学を学ぶ学科を目指すために「英語」「数学」「物理」の3科目を選んだとしましょう。

「英語」「数学」「物理」は、ぜんぶ役に立つ科目です。

「英語」「数学」「化学」も、ぜんぶ役に立つ科目です。

さて、「松ぼっくり」は「ほとんど食べるところがない」のに比べて、「くり」は食べられるところが多い。

理系受験では、「くり拾い」をさせられます。 つまり「英語」「数学」「物理」または「化学」といった、役に立つ科目だけを勉強させられます。

万が一、大学受験に失敗しても、「英語」「数学」「物理」または「化学」を学んだ知識は、電気関係の資格、あるいは、化学物質を取り扱う資格などを取得する際に、直接役立ちます。

それは、受験勉強で拾わされるのが「くり」だから、「くり」が食べられるので、自分としても、受験勉強がムダな努力にはならない、ということです。

「英語」「数学」「物理」または「化学」は、ぜんぶ職能につながる、役に立つ科目ばっかりなんですよ。 受験勉強のプロセスが、そのまま職業訓練なわけ、理系は。

他方、文系科目は、意味のない暗記の連続なわけ。 パガン朝の年代とか覚えても、価値創造につながらないでしょ?  例えば、世界史Bの細かな知識で合否が決まるような私大文系は、いくら高偏差値でも、進学する意味がないのです。 それは「受験科目」が「まつぼっくり」であることに加えて、大学で学ぶ社会科学や人文科学についても、「そんなの図書館や書店で自分で勉強できるさ」という内容ばっかりなのですよ。

つまり文理のコース選択において、「迷ったら理系を選んどきな」ってことですよ。

文系の受験競争は「意味のない競争」

山川出版社の世界史用語集の頻度何番までを覚えるとか、そういうことをやっても、価値創造に結びつかないでしょ? 

文系の受験競争は「意味のない競争」をさせられているんだわな。

「松ぼっくりを拾う」って、バカかよ? 

どうせ拾うんだったら、ちゃんと食えるものを拾えよ。

それは「くり」や「椎の実(どんぐり)」を拾えということ。

つまり、どうせ受験勉強するんだったら、「英語」「数学」「物理」または「化学」という、職能に直接結びつく科目を受験科目にしろよってことだ。

例えば、物理を勉強しておけば、力学や電磁気学そのものでしょ?  それらは、建築や機械や家電製品の設計などに、ダイレクトに役立つでしょ? 

「英語」「数学」「物理」または「化学」というのは、価値創造に直接結びつくわけです。

だから、理系受験では「くり拾い」をさせられるわけ。

「くり」は食える。

理系受験は、受験勉強そのものが「役に立つ勉強」「ウマミのある勉強」ということになる。

「自分が食っていくために大学へ進学する」ということであれば、四工大(芝浦工業大学・東京電機大学・東京都市大学・工学院大学)のような、中偏差値で入りやすいけれども、就職がバッチリな大学を選ぶことですよ。

早稲田とか慶應の文系だったら、学歴は飾りにしかならない。 食ってけないよ。

現実を見ようぜ。

中学校での進路指導は人権侵害

「自己責任」を負うからには「自己決定権」を行使できないとバランスしない

「自己責任」の原則を押し付けられるからには、「自己決定権」が与えられないとおかしい。

高校入試の合否は、「自己責任」だよな? 

「自己責任」ということなら、「自己決定権」を行使することができるようにしておかないと、義務と権利とが釣り合わない。

つまり「高校の合否については自己責任」なのだから、「自分の好きな高校を受験することができる権利」が与えられないとおかしいんだよね。

14歳で目覚める男子

「中学2年」から「中学3年」にかけてが14歳。

男子が急に大人びて、「賢くなる」のは、14歳頃だという説もある。

中学1年や中学2年の前半は、小学校の延長で「ちゃらんぽらん」だった男の子が、中学2年の途中から急にしっかりするようになったりする。 急に賢くなる。 そういうふうに「急に大人びる年頃」が、14歳前後といわれることがあると思います。

中学の内申点というのは、中学1年からの積み重ねなのかな?  そうだとしたら、内申点というのは、「入学当初から真面目にコツコツやってきた生徒」が有利になるようにつくられているんだよね。

でも、自分の中学時代を思い返してみると、「入学当初から真面目にコツコツやってきた生徒」が優秀かといったら、そうともかぎらない。

他方、中学1年や中学2年の前半は、小学校の延長で「ちゃらんぽらん」だった男の子が、「14歳の目覚め」で急に勉強ができるようになる場合がある。 内申点はそこまでよくないのに、現時点の学力が高い。

「内申点が上がる・下がる」という脅しによって「指導」をしても「真面目なバカ」=「真面目系クズ」が有利になるだけで、「学力の底上げ」「生きる力の増進」にはつながりがたい。

そういうふうに、内申点の制度、あるいは、内申書を加味しすぎの高校入試の制度というものが、「後から目覚めた真の実力者」にとって不利になることがある。

つまり内申書というものが、「ある側面において公平性を欠いた制度である」「本当の実力主義になっていない」という側面をもっているような気がします。

内申書が強い権限をもちすぎると、「教諭が生徒の支配者になってしまう」という状態を招きやすくなるでしょう。 それは「属人主義の横行」を許すことです。

つまり、「教諭がある意味、生徒の生殺与奪を掌握している状態」をつくってしまう。 そうすると、ハラスメントが起こりやすい。

内申書が強い権限をもちすぎると、人権侵害・人権蹂躙が起こりやすいわけです。

内申書が強い権限をもちすぎると、平たくいえば、警察の取調室、あるいは、精神病棟のような「人権侵害・人権蹂躙の空間」が学校の中に発生してしまうことになる。

人権侵害・人権蹂躙は、そこに人間が介在するから発生するわけです。

人権侵害・人権蹂躙をおこなうのは人間である。 このことを考える必要があると思います。

人間が介在しないような、学力を公平に測定・評価するシステムを開発して、そのシステムによって、その生徒に最もふさわしい高校を紹介し、入学許可を取り付ける仕組みにする。 こちらのほうが、結果が芳しいかもしれません。

分断統治のために生徒に序列をつけることが進路指導の目的

高校にランクがあることに違和感を感じる。

中学の進路指導で、「底辺」「下層」に配属されるメンバーが決められる。 いいかえれば、「低偏差値高校」に配属されるメンバーが、中学の進路指導教諭によって決定される。

この中学における「受験できる高校の振り分け」の段階で、社会階層としての「底辺」「下層」への配属が決まってしまうような部分があると思う。

このようにして社会の階層分化を促進するのは、分断統治(分割統治)をしたほうが独裁者にとって有利だからだよ。

社会が階層に分かれていると、社会が一致団結して革命を起こす確率が低くなるんだよね。

現在がまさしく、そうでしょ? 

アベノミクスでおいしい汁を吸っている人たちは、現状を維持・存続仕手ほしいと願う。

他方、貧困にあえいでいる大半の国民は、安倍が早く政界を去ることをのぞんでいる。

このように、社会階層ごとに利害対立が起こると、全員一致で「安倍政権を倒せ」とはなりがたいのよ。

そして、中学の進路指導教諭ごときが、人間を「底辺」「下層」に振り分ける権限をもっているところがおかしいの。

そこでは、自分が決定した進路にチャレンジする自由が侵害されているんだよね。

結局、「内申書」や「中学時代の学力テストの成績」で「高校入試の合否決定の大半」がなされてしまい、「高校入試における成績」が占める比重がとても小さくされてしまっている。 ここが「おかしい」と思う部分なんだよ。

高校入試は「入試の一発勝負」にしたほうが公平感が高い

高校入試にかんして「入試の一発勝負」にすると、「その時点での学力」を反映した「公平感の高い競争」がおこなわれることになるでしょう。

純粋な実力主義にしたほうが、本当の意味での「競争」が起こって、その「純粋な実力主義の場」に「実力なき者は淘汰される」といったような「自浄作用」が生まれてくるわけです。

内申点だけはいい「真面目なバカ」や「真面目系クズ」が「ランクの高い高校」に合格しても、どうせ大学受験では馬脚を現すことになる。 だったら、「真面目なバカ」や「真面目系クズ」は、高校入試の段階でふるい落として、ガチで賢いヤツだけを進学校に集中させればいいじゃんかよー。

どうして「真面目なバカ」や「真面目系クズ」を進学校の合格者に混ぜ込むのか、意味がわからない。

実力主義を採用するのだったら、徹底的にやったほうがいい。

私は「その魂の『思い切り』を生きることが大事」「抑圧はするべきではない」という考えをもっているのです。

勉強に自信のある生徒は、思いっきり勉強に没頭して、ぶっちぎりの成績で高い偏差値の大学に合格すればいいと思っているのですよ。

「外力を加えないで、その魂が自分の内発的な欲求に基づいて『思いっきり』を生きる」ことが、この世を活性化される道だと思うのです。

「摩擦を軽減して、自由運動に任せる」という感じの世の中こそが健全だと思うわけです。

受験において、数学、物理、化学などで、激しい学力競争が起こるのは、好ましいことだと思います。

けれども、文科省は「勉強における競争を、分断統治(分割統治)をおこなうための、生徒の序列付け・階層分けにしか使っていない」のです。

文科省は、国民の学力を全体的に向上させる(国民の平均学力を底上げする)つもりがないのだと思います。

●工事中●

文科省は「全員が高いレベルで特定の科目が得意である」などといった状況をつくりたくない

国民全員の学力が向上し、学力格差が縮小すると、分断統治(分割統治)がおこないにくくなる。

科目の数を大幅に増やす

理論的なことだけいえば、どの生徒も、その科目で一番になるように、科目の種類を増やせばいい。

いいかえれば、「各生徒の最も得意なこと」を調査し、その1つ1つを科目にしていけば、「生徒の個性を重視した教育」がおこなえる。

 
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