内発的な意欲に基づかなければ何も実らない|教育は「自己決定権の尊重」を基本とせよ!

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「それがやってみたい」の「それ」を提示するのが教育

教育とは、学習者が「やるべきこと」を提示する場ではない。

ましてや、学習者が「やるべきこと」を押し付ける場ではない。

学習者が「自分がやりたかったこと」を思い出すのをうながすために、「学習者がやりたいであろうこと」をたくさん提示していくために教育はある。

「学習者がやりたいであろうこと」のお品書きに提示された項目数は、現代の複雑さからすると、数千以上ないとおかしい。

ICTを使えば、それは可能だ。 数千以上の「その道に従事している大人」が、学習者とつながればいい。 例えば、Zoomミーティングで授業をすればいいと思う。

つまり学校の先生でない人まで含めて、みんな先生をする必要がある。

そして例えば、「音楽は嫌いだ」という子は、音楽という科目を科目選択のカテゴリーからはずして、その子の「自分がやりたかったこと」にヒットするまで、別の「学習者がやりたいであろうこと」をたくさん提示する。 それが教育という場であろう。

その子が夢中になれる何かを探り当てるまで、「あれかな」「これかな」を無数に提示し、「これがやりたかったんだ」ということを、その子に思い出してもらうことを助ける。 それが教育という場であろう。

そういうことからすると、学校教育の科目の種類は少なすぎる。 また学校の先生では、カバーできない範囲が広すぎる。

例えば、ICTの世の中なのに、どうして学校教育に、例えば「正規表現」「Linuxコマンド」「JavaScript」「Python」など、プログラミングとその周辺の科目がないのか? 

「ゲームがつくりたい子」は多いと思うし、それが仕事になる世の中である。

「学習者がやりたいであろうこと」をたくさん提示することができない公教育なのであれば、公教育は必要ない。

インターネットが発達した現在では、「法改正を経なければ何事も変えることができない」という行政の緩慢さ、スピード感のなさは、完全に時代遅れである。

文科省、教育委員会、学校、教師が、緩慢さ、スピード感のなさから、「教育を最新に保つ」ことの足かせになっている。

文科省、教育委員会、学校、教師が、学習妨害要因になっている。

ICTの発達によって、行政よりも市民のほうが賢い状態になっている現在、行政は市民の足手まといになる面があるように思う。

「行政を動かさなければ何事もできない」という構造そのものが、「行政が社会のお荷物になっている」ということを端的に表している。

「自由意志の原則」に基づき「自分が選ぶ」のではなく「やるべきこと」を外部から押し付けられている

結局、「A定食か、B定食しか選べない社員食堂」のようなところに、学習者が囲い込まれている。

学校教育の科目の種類では、選択肢が少なすぎるし、選択肢の中身が、社会に出て職業とするもの、あるいは、ある個人のライフワークとするものとかけ離れている。

「自分がやりたいこと」がわからなくなるように「やるべきこと」を外部から押し付けられている

学校教育では、自己決定権が侵害されている。

「自分がやりたいこと」が何なのかわからない、という子が多い。

それは自己決定権が侵害され続けてきたので、「自分で選ぶ」という能力が廃用性萎縮で、退化してしまっているのである。

「自分で選ぶ練習」を徹底的に積んでいけば、回復できると思う。

「自分がやりたいタイミング」でおこなえなくなるように「やるべき時期・時刻」までもが外部から押し付けられている

タイミングについても、押し付けが横行している。

「試験に間に合わせるため」「納期に間に合わせるため」に「我を忘れる」ように、社会が仕組まれていたのだった。

これからは、もっとゆっくりとした世の中になるから、もう「試験に間に合わせるために無理して頑張る勉強」を捨て去っても大丈夫ですよ。

「納期に間に合わせるために徹夜をするような会社」は、なくなりますよ。

「やりたいこと」を「自分が選ぶ」|「やりたいタイミング」を「自分が選ぶ」|教育は「自己決定権の尊重」を基本とせよ!

個人の尊厳を尊重する立場から、個人の「やりたいこと」や「やりたいタイミング」は、当人が決めなければならないように、仕組みを変える必要がある。

「自己決定」は、権利であると同時に、宇宙の住民としての義務でもある。

「自分で決める」ことを放棄すると、支配者が台頭することになるのだ。

各自が「自分で決める」ことを徹底することによって、カリスマの出現を許さない構造ができあがる。