[それはなぜか?]の探求

高校に古典は本当に必要なのか?|必要ない〔反語〕

中学・高校に古典は本当に必要ない|国公立大学は人文科学系/社会科学系の学部を廃止してよい

高校に古典は本当に必要なのか: 高校生が高校生のために考えたシンポジウムのまとめ | 長谷川 凜, 丹野 健, 内田 花, 田川 美桜, 中村 海人, 神山 結衣, 小林 未來, 牧野 かれん, 仲島 ひとみ, 長谷川 凜, 丹野 健, 内田 花, 田川 美桜, 中村 海人, 神山 結衣, 小林 未來, 牧野 かれん, 仲島 ひとみ |本 | 通販 | Amazon古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。 | 基, 勝又 |本 | 通販 | Amazon

  • 私たちは物質次元に生きているわけである。したがって、次のように考える必要がある。
  • [ライスワーク〔日々のかてを得るための労働〕]というプラットフォームの上に、[ライフワーク〔一生を通じて成し遂げる魂レベルで達成すると決めてきたテーマ〕は抽象・虚]が成り立つのだという[構造の制約]から逃れることはできない。
  • 例えば、山を切り開き、ログハウスを組み立て、日々の生活が安定してきて初めて、ゆっくりと小説を読んだり、小説の執筆に励むことができるわけである。 食うに困らぬ生活が確保されていればこそ、文学を味わう余裕が生まれてくるのである。
  • つまり[衣食足りて礼節を知る]というのが順序である。いいかえれば、[衣食足らずんば礼節を知る由もなし]である。
  • 文学が、[身を助くに足る芸]になり得るのか? NOだろうな。
  • 文学をたしなむのは、食ってくだけの芸を身につけた後だろうな、どう考えても。
  • 人生は時間が限られている。人生は短い。したがって、古典教育が重要かどうかは、それ単独で論じても意味がない。 相対的重要度が低いか、高いか、それは時代の趨勢を見て決めることである。 古典教育は、いますぐ必要なのか?  タイミングはいまか? 
  • 結論を述べれば、食っていくためのスキルを支える基礎知識、リテラシーのほうが先決問題となる。 前提として、人生は短いということがある。 そこからすると、優先順位の関係から、中学、高校の古典教育はカットするのが適切である、という結論になる。
  • [ライスワークを支える土台となるスキルを習得するための基礎知識、リテラシー、いいかえれば、日本語の特に書き言葉・数学・物理・化学・プログラミングなどを集中的に学び、それによって[芸が身を助く状態]を先につくるのが順序というものだろう。
  • いいかえれば、文学は大学以降の高等教育、しかも、ごく一部の選ばれし者たちだけが、高度なレベルで研究を続ければ十分であろう。
  • 大学ではなく、[日本古典研究所]などといった独立の研究機関を設けて、その研究員? 学芸員? になることのできる特別な人々だけが、古典研究を深掘りしていけばいいのさ。
  • 中学・高校での古文・漢文の勉強は、ムダでしかない。
  • 例えば、理科で[物理・化学]だけ受験に使って、[生物]は本気で取り組まずに終わるぐらいだったら、[古文・漢文]をカットして[生物]を必修化したほうがいい。
  • その背景には、日本の産業構造がある。 まず、工業がまともに成り立つ国は少ない。 そして、日本は工業がまともに成り立つ数少ない国の筆頭である。 これは日本人が、[青白くて小さい人=シリウス人]の[勤勉で有能で科学に強い]という血を濃く受け継いでいるせいなのかもしれない。 地球において、工業をリードしていく責務が、日本人にはある。 こうした背景から、国力増進の基盤となる教育といったら、[工業を支える技術者の養成]が中心となるだろうというラインが見えてくるだろう。
  • しかも日本だけが得意な分野として、[やわらかいもの]と[かたいもの]のコンビネーションを高い次元で制御する技術、というものがある。
  • 例えば、カメラは、電子機器でありながら光学機器でもあり、機械でもある。 カメラは映画と同じく、総合芸術である。 総合芸術が得意なのは、日本と、それに次ぐのがドイツだろう。 カメラ、自動車、筆記具など、日本とドイツが得意な分野である。 鉄道は、日本が飛び抜けていると思う。 鉄道がこれだけ機能しているのは、日本ぐらいだと思う。
  • そうした、国力増進の基盤になる部分は、理系が支えている。 現在、文系:理系の構成人員比率は7:3だけれども、これは3:7にひっくり返さないといけない。 それは、地球の自然との共生を図りながらも、高度な文明社会を同時に実現していくためには、自然・自然科学に対する深い洞察が必要だからである。 具体的には、高度先進文明をもつ他の天体から訪れる宇宙存在から、進んだ科学技術を習い、それを応用していくプロセスが、これから始まる。 そのとき、宇宙存在が伝える進んだ科学技術を習得するための精鋭たちが必要である。 それが、日本に生まれてきている若い子たちである。 そういう予定で、いろいろな天体から、狙い澄まして、この時期に生まれ変わってきている子たちである。 彼らが古典を学ぶために生まれてきているとは思えない。
  • 古典教育をごり押ししたい側は、単なる自己保身から出たポジショントークに終始しているのではないかと思う。 [客観的な立場からの議論ではなく、ポジショントークにおちいっている]という点から、古典教育をごり押ししたい側は、ちょっと頭が悪そうに見える。 冷静に考えてみろよ。 文学部を出ても食っていけないぜ。 文学部を出ても、社会では底辺をさまようことにもなりかねない。 その危険な道を、万人に勧める、というのは、大人げなく愚かなことだろうと思う。
  • そして、人生は短い。 古典やっとるほど、人間、ヒマじゃない。

資源の最適配分は、それぞれの魂の一生のテーマによって異なる

情操という領域は、きわめてパーソナルな領域である。 パーソナルな領域であるがゆえに、そこでは[個々人の内心の自由][個々人の選択の自由]が最大限に重んぜられる必要がある。