なぜ自民党では駄目なのか?|自民党はアメリカのための政党だから
- 自民党を日本の政党だと思っている人はアホ。
[CIAが自民党を作った]という表現は、自民党がアメリカによって直接的に設立されたという意味ではありませんが、結党やその後の政権運営において、CIAからの秘密資金援助という形で強い影響力を行使されていたことは歴史的な事実として認識されています
自由民主党は、1955年に保守勢力が結集して結成されましたが、その結党やその後の活動において、アメリカ中央情報局〔CIA〕が秘密裏に資金提供などの関与を行っていたことが、後のアメリカ公文書公開や報道によって明らかになっています。
主な事実は以下の通りです。
- 結党の背景:1950年代半ば、社会党の統一による左派勢力の拡大に対抗し、保守勢力を結集させる[保守合同]が進められました。これは国内的な動きでしたが、冷戦下における反共産主義の観点から、アメリカ政府やCIAもこの動きを支持していました。
- CIAによる資金提供:1950年代後半から1960年代初頭にかけて、CIAが自民党や一部の有力政治家〔後の首相である岸信介や佐藤栄作など〕に対し、選挙資金や活動資金を秘密裏に提供していたことが、アメリカ国務省の外交史料などで確認されています。
- 目的:この資金提供は、日本の政治を親米・反共の方向へ導き、日米安全保障体制を強化することを目的としたアメリカの対外工作活動の一環でした。
- 公文書と報道:1990年代や2000年代にアメリカの公文書が公開されたことや、『ニューヨーク・タイムズ』などの報道により、これらの事実が広く知られるようになりました。
したがって、[CIAが自民党を作った]という表現は、自民党がアメリカによって直接的に設立されたという意味ではありませんが、結党やその後の政権運営において、CIAからの秘密資金援助という形で強い影響力を行使されていたことは歴史的な事実として認識されています。
[CIAが自民党を作った]という表現は、自民党がアメリカによって直接的に設立されたという意味ではありませんが、結党やその後の政権運営において、CIAからの秘密資金援助という形で強い影響力を行使されていたことは歴史的な事実として認識されています"
■CIAと自民党の裏歴史
日本の戦後史における転換点では、朝鮮戦争を境にアメリカの対日方針がGHQの非軍事化からCIA主導の反共親米保守への転換を遂げ、その結果、保守合同による自民党の長期政権と矛盾を抱えた憲法9条と自衛隊の存在、そして反共産体制の法制度が実現した。
CIAの支援によって形成された反共親米保守の自民党一党優位の1955年体制は、政権の安定という側面を持ちつつも、利権構造の固定化と政党間競争の欠如を生み、結果として日本の産業構造を時代遅れなものにし、その歪みが現在可視化されている。
日本の戦後転換点とアメリカの方針転換
戦後の日本の歴史には大きな転換点が存在し、朝鮮戦争の前後でアメリカの日本への方針は180度変わった。 GHQ〔連合国軍最高司令官総司令部〕による支配はサンフランシスコ平和条約による日本の国際法上の独立国への復帰によって終わりを迎えた。 アメリカはその後も日本に影響力を残すために、GHQに代わる組織であるCIAが日本への支援を開始した。
GHQによる占領期の[二度と戦争をしない国]への方針
GHQによる支配の期間、日本を二度と戦争をしない国にするという方針があった。 その方針に沿って、太平洋戦争の原因と考えられていた大企業である財閥の解体が行われた。 大企業財閥は資源や消費地を求め続ける拡大思考や成長思考を持っており、新たな市場すなわち植民地を求め、それが太平洋戦争の一つの原因であるとGHQは考えた。 戦争の中枢にいた人々を公職から追放する措置が取られた。 日本国憲法を制定し、その中に平和主義である憲法9条を明記して戦争の永久放棄を定めた。 GHQの方針は、戦争の原因を取り除くという点で筋が通っていた。
朝鮮戦争によるアメリカの対日方針の変更
日本の外で起きた朝鮮戦争により、アメリカの対日方針は大きく変わった。 北緯38度線で分断されていた朝鮮において、共産圏の北朝鮮が南朝鮮である韓国に攻め入るという事態が発生した。 共産主義と自由主義の戦争が目に見えて起きた結果、日本を独立させることを急ぐことになった。 GHQが撤退した後、代わって日本への影響力を残す組織としてCIAによる支援が本格化した。 GHQのマッカーサーとCIAでは考え方が異なっていたため、GHQによる占領期はCIAの影響はほとんどなかった。
CIAの対日戦略:反共・親米保守の安定
CIAは日本に対して、反共産主義、すなわち[反共]と、自由主義の砦として日本に再軍備を求めた。 1950年の朝鮮戦争発生と同じ年に警察予備隊が創設された。 解体されていた財閥の再統合である大合同を認めさせる措置が行われた。 戦争責任者として公職追放されていた人々を、反共産主義の有力者と捉え直し、公職追放の解除を実施した。 日本を二度と戦わない国にするというGHQの方針から、日本をもう一度戦える国にするという再軍備へと方針が変わった。 このアメリカの方針の180度の転換が、憲法9条と自衛隊の矛盾の原因である。
憲法9条と自衛隊の存在は矛盾を抱えている
憲法9条がありながら自衛隊が存在しているのは、自衛隊が解釈の上で合憲であるとするのが通説であり建前である。 憲法9条を文章通り読めば、戦争の永久放棄とそのための戦力は保持しないとしているため、戦力である自衛隊は100%違憲である。 教科書では自衛隊は解釈合憲と教えられているが、実際には憲法を作らせたアメリカと再軍備を促したアメリカの方針が違っていたため、明らかに矛盾が生じている。
CIAが日本に望んだ反共・親米保守の安定
CIAが日本に望んだことは、反共産主義で親米保守の状態で日本が安定していることである。 日本共産党や社会党の政権奪取を防ぐことが第一の目的であった。 自由民主党を親米・反共の中心勢力に位置づけるという方針であった。 保守分裂していた自由党と日本民主党を統合させ、自民党として一本化するように誘導した。 日米安全保障条約の維持と継続を望み、在日米軍の恒久化と[思いやり予算]を求めた。
経済安定と資本主義体制の維持が目指された
経済の安定と資本主義体制の維持を目的に、日本における社会主義革命を防ごうとした。 米国型の資本主義を日本に根付かせるための制度整備を推進した。 メディアと世論操作も行われ、反共産のプロパガンダすなわち宣伝を拡散させた。 保守的価値観の世論形成も行われた。
公職追放解除によって政治に復帰した主な人物
公職追放が解除されることによって政治に復帰した主な人物は、岸信介、鳩山一郎、正力松太郎などである。 これらの人々は、元々逮捕や刑務所生活を経験していたが、GHQが撤退しCIAの影響力が強くなったことによって、日本の政治中枢に復帰した。 メディアを通じた世論操作の一例として、CIAは正力松太郎を協力者としたことが挙げられる。
メディア王・正力松太郎がCIAの協力者になる
正力松太郎は読売新聞の社長であり日本テレビの社長であった。 1945年8月の終戦時、読売新聞の社長であった正力松太郎は、買収によって読売新聞を5万部から200万部まで拡大した人物である。 彼は戦時中の国策協力者であったため、GHQによって公職追放された。 1951年頃、日本が独立しGHQからCIAへと影響力が移り変わる時期に、CIAが正力に接触した。
CIAは正力松太郎をコードネーム[ポダム]と呼称した
CIAは正力松太郎のことをコードネーム[ポダム]と呼んでいた。 アメリカの公文書によれば、CIAはポダムとして正力松太郎を協力者としてリクルートした。 1952年5月に日本の独立に伴い公職追放が解除され、正力松太郎も公職復帰が可能になった。 この公職追放解除にはCIAの支援が影響した可能性が指摘されている。
日本テレビ開局準備と反共プロパガンダの拡散
1952年10月に日本テレビの開局準備が開始された。 正力松太郎は新聞社社長からテレビ局社長へと転身した。 彼は日本全国だけでなくアジアにまで広がる、壮大な放送通信網の構想を持っていた。 日本テレビの正式名称は日本テレビ放送網である。 日本初の民間テレビ局である日本テレビの開局を正力松太郎が主導した。 CIAは、正力松太郎が運営する日本テレビによる反共産のプロパガンダ拡散に期待した。 CIAと正力松太郎は連絡を取り合い、互いの利益のために協力した。
正力松太郎の政治進出と原子力政策の推進
1954年、第1次鳩山内閣のもとで正力松太郎は文部科学大臣として入閣した。 経済界で成功した人が政治家に転身し、名誉を求めることはしばしば見られる。 正力松太郎は当選1回の国会議員でありながら、国務大臣に就任した。 それは政界と財界が非常に密接に繋がっていたからである。 CIAとの関係はその後も継続した。 1956年に科学技術庁長官に就任し、原子力政策を推進した。 正力松太郎は原子力の父と呼ばれ、アメリカとの原子力協定を推進した。
原子力政策の推進は正力松太郎の個人的な野心であった
正力松太郎の原子力政策の推進はCIAの戦略に合致していた。 新聞、ラジオ、テレビといった放送や通信と原子力は本業とはかけ離れていた。 正力松太郎が原子力に力を入れた理由は、総理大臣になるという個人的な野心によるものであった。 総理大臣になるための大きな政治テーマとして原子力というテーマを利用した。 日本は広島と長崎で原爆を被爆した唯一の被爆国である。 1953年の第五福竜丸事件で水爆の唯一の被爆国にもなった。 第五福竜丸事件の際には、日本国内で3000万人の署名が原子力普及に反対した。
国民世論の原子力発電への大反対をメディアで緩和する
日本の国民世論は原子力に対して大反対であった。 正力松太郎は読売新聞と日本テレビというメディアを利用した。 自分が総理大臣になるための大きな政治テーマとして原子力発電を掲げた。 読売新聞と日本テレビで、原子力がいかに夢のある科学技術であるか、永遠のエネルギー源であるかという報道を大々的に流し続けた。 正力松太郎は、原爆の唯一の被爆国であり原子力発電大反対の世論を、ある意味で緩和する役割を果たした。 これはCIAとアメリカが、自国の原子力発電の設備や技術を日本に売りたかったという戦略に貢献した。
CIAの支援によって保守合同と自民党の長期政権が実現する
CIAの支援によって、保守合同が実現し、自民党が優位を占める一党政治が始まった。 日本はCIAが望んだ通りの国になっていった。 1955年の保守合同により、自由党と民主党が合流し、衆議院の議席の3分の2近くを占める勢力になった。 自由民主党が結成され、1955年体制という事実上の自民党による一党優位体制が築かれ、長期政権が続いた。 社会党や共産党が政権を執ることはなかった。 政策の安定と親米路線の維持が図られた。
高度経済成長の制度設計と反共産体制の法制度
日米安全保障条約とその維持が図られ、岸信介政権による改定安保は米国の極東戦略に完全に適合した。 高度経済成長の制度設計として、官僚と財界とが連携した政官財による開発独裁的な資本主義モデルが採用された。 自民党が一党で政治を進める体制は事実上の独裁的な資本主義であった。 反共産の体制の法制度が整えられ、警察力、教育制度、メディア法制を通じて左派が抑制された。 公安調査庁、教育委員会、NHKなどを通じて、左派的な情報や教育が日本で抑制される仕組みが整えられた。
岸信介内閣の重要方針:憲法改正と安保条約の改正
日本は基本的には右派的で保守的、親米的で反共的である。 岸信介内閣はGHQの占領期の政策は間違っていたと考えていた。 岸信介は戦犯として逮捕され刑務所にいたため、GHQによる占領政策を否定した。 岸信介内閣の重要方針は、GHQによって作られた憲法の改正であった。 もう1つの重要方針は、吉田茂内閣のときに結ばれた日米安全保障条約の改正であった。
1951年と1960年の日米安全保障条約の相違点
1951年の吉田茂内閣で結ばれた日米安全保障条約は、10年間の期間に限定がある時限の条約であった。 10年後の1960年に改定および継続が決定され、岸信介内閣がこの新安保条約を担当した。 1951年の安全保障条約と1960年の新安全保障条約の最大の違いは、万が一の時に戦闘を担当する主体であった。
新安保条約によってアメリカと日本が共同で戦うことになった
1951年の条約では、日本国憲法9条が存在するため、万が一の時に戦うのは米軍であった。 日本は土地を基地として貸す形であった。 1960年の新安全保障条約では、1954年に自衛隊が発足し事実上の軍隊が存在していた。 新安保条約の内容は、万が一の時に戦うのはアメリカと日本であるというように変更された。 GHQは日本を二度と戦わない国にしようとしたが、CIAは日本をもう一度戦える国にしようとした。 警察予備隊、保安隊、自衛隊という形で再軍備が発展した。
国際環境の変化と新安保条約への国民の懸念
1950年に朝鮮戦争が勃発し、1954年には中国と台湾で台湾危機が発生した。 1955年にはベトナム戦争が始まったという国際環境の中、戦争が頻発する状況下で1960年の新安保条約が締結されようとした。 新安保条約は米軍と日本が一緒に戦うという内容であったため、米軍の戦争に日本も巻き込まれるのではないかという懸念が国民の間で高まった。 岸内閣は、野党を追い出し強行採決によってこの新安全保障条約を採決した。
岸内閣による強行採決は民主主義の危機を招いた
1960年5月19日の夜、衆議院本会議で新安全保障条約が審議されていた。 野党の社会党などは採決を阻止するために議場を封鎖して座り込み戦術を取っていた。 アメリカ政府が新安全保障条約の採決を希望した期限は6月19日であり、その1ヶ月前の5月19日中に与党である自民党の岸内閣は衆議院で採決を強行したかった。 日本の憲法では衆議院の優越が定められており、衆議院で可決したものは参議院が審議しなかったとしても30日後には自動的に可決となる。 岸内閣は6月19日までに新安保を議決するためにこの戦術を用いた。
警察力による野党議員の排除と自民党単独での採決
野党の社会党は衆議院での採決を阻止するため議場を封鎖し座り込み戦術を実行した。 1960年5月19日の夜、岸首相は警察官500人を警視庁から国会に導入した。 岸首相は議場の整理という名目で社会党議員を実力で排除した。 午後11時50分という期限まで残り10分の時点で、野党がいないまま与党の自民党だけで採決を取った。 新安保条約の承認が可決され、翌日に参議院に送付された。
強行採決が安保闘争を引き起こし岸内閣は退陣に追い込まれる
警察力を使っての岸内閣の強行採決に対し、日本国民は大激怒した。 議員を無理やり排除した上で自民党だけで採決したことは民主主義の危機であった。 結果として安保闘争に繋がり100万人以上の人々が安保闘争に参加した。 5月に岸内閣が強行採決を行い新日米安全保障条約が採決された。 6月には国民が大激怒し安保闘争に発展し、この中で東京大学の女学生が1人亡くなるという不幸な出来事も発生した。 これによって7月に岸内閣は退陣に追い込まれた。
憲法改正の意思は岸信介の派閥である清和会に持ち越される
岸内閣はGHQが占領期に実行した政策は間違っていると考え、その時に決定された重要なことの改正を強く望んでいた。 強行採決によって安保条約の改正、すなわち日本をもう一度戦える国にするという条約の締結は実現した。 しかし、国民の安保闘争によって対人へ追い込まれたため、憲法を変えることは結果的にできなかった。 憲法改正という岸信介の思想は、その思想を受け継いだ派閥である清和会に持ち越された。
清和会は自主憲法制定という保守思想を明確に掲げる
清和会という派閥は、1957年に岸信介が首相に就任した際に、GHQによって作られた憲法ではなく、日本が自国で作る自主憲法制定という保守思想を明確に掲げた。 岸内閣はこの自主憲法制定を強く望んでいたが、実際には対人へ追い込まれて実現できなかった。 1972年に福田赳夫が派閥を分化して福田派となり、初代清和会になった。 1979年に派閥名は平和政策研究会へと変更された。
清和会の流れは森、小泉、安倍という総理大臣を輩出する
1980年代に安倍晋三元総理の父である安倍晋太郎が福田派を継承した。 安倍晋太郎は元々岸信介の息子であり、安倍晋三元総理にとって岸信介は祖父にあたる。 安倍晋太郎は外務大臣を歴任し次期総裁と目されたが病没した。 その後、清和会は森喜朗が派閥会長に就任し、森喜朗が首相になった。 そして小泉純一郎が首相となり、その後すぐに安倍晋三が首相になった。 森、小泉、安倍という形で3連続で清和会から総理大臣が誕生した。
安倍晋三元総理は祖父の遺志である憲法改正を目指した
安倍晋三元総理は第1次政権が1年間で終わったが、2012年に第2次政権を発足させた。 それ以降2020年までの在任期間は戦後最長政権になった。 安倍晋三元総理が憲法改正を強く望んだ理由は、元々は祖父である岸信介がやりたかったことだったからである。 60年、70年という時間を超えて、自主憲法制定という構想に最も大きなこだわりを持っているのが自民党の清和会であった。
CIAによる自民党支援の方法は[口]と[金]であった
CIAによる自民党支援の具体的なやり方は、[口]と[金]による支援であった。 アメリカは反共産主義と親米保守で日本が安定することを望むという[口]を出した。 それを実現するための支援として[金]も提供した。 1950年代、60年代の日本は発展途上国であり、戦後の復興途上にあって電力や金融網も不安定であった。 CIAは[口]と[金]を提供した。
政治家や仲介人に報酬を支払いアメリカ製品を購入させる
CIAが提供した金は基金のような形になり、CIAが指定する米国企業から日本へ製品や商品を購入させた。 そして仲介人や政治家に報酬が支払われた。 当初は軍事兵器が中心であったが、1960年代、70年代になると軍事兵器だけでなく民間製品も含まれるようになった。 後に問題となった航空機などもこの形で売買された。 政界と財界の癒着構造の原型は、CIAによる自民党支援によって作られた。
CIAの直接的な内政干渉は1970年代以降に控えられる
CIAによる自民党支援の頂点は1950年代、60年代であった。 1970年代になると、CIAは露骨な内政干渉を控えるようになった。 内政干渉は国際法上違法であり、独立国である相手国の立法、行政、司法に他国が干渉することは国連憲章に違反する。 そのため、[口]と[金]を出すというような分かりやすい内政干渉は表立って行われなくなった。
ロッキード事件はCIA関連では最後の事件であった
政界と財界の癒着による田中角栄元総理の逮捕に繋がったロッキード事件は、CIA関連では最後の事件であった。 田中角栄元総理自身はCIAとは関係が深かった総理大臣ではなかった。 しかし、ロッキード事件にはCIAとの仲介役であった児玉誉士夫が絡んでいた。 このため、CIAと全く無関係な事件ではなかった。
ロッキード社が航空機の売り込みにこだま誉士夫を介した
当時の全日空〔ANA〕がアメリカのグラスマンから大型航空機を購入しようとしていた。 競合のロッキード社は経営危機にあり、全日空に自社の航空機を売りたかった。 ロッキード社はヨーロッパや日本の政治的な活動を展開した。 ロッキード社の航空機を全日空に導入してもらうための動きがあり、その仲介にCIAとの繋がりがあった児玉誉士夫が動いた。
ロッキード事件は戦後最大の事件でありCIA関連の最後の事件
児玉誉士夫を経由して田中角栄の口座に5億円のお金が入るという事態が発生した。 これが明るみに出たのがロッキード事件である。 田中元総理自体はCIAと親密な関係ではなかったが、彼に渡った5億円がCIAと繋がりのある児玉誉士夫を経由していた。 元総理が逮捕されたこの事件は、当時としては戦後最大の事件であり、CIA関連では最後の事件とも言える。
CIAの関与が作った制度は固定化し時代遅れとなっている
1980年代以降の日本政治とCIAの関与は非常に薄くなっている。 1940年代、50年代はGHQ、50年代、60年代はCIAの関与があったが、80年以降はほとんど関係がなくなった。 CIAの直接的な関与が小さくなっていたとしても、CIAの関与によって作られた制度は未だに残り続けている。 制度は固定化しているが、時代は変化し続けているため、制度は時代遅れになりつつある。
CIAの支援で作られた反共親米保守の自民党一党優位政治
CIAによる支援で作られた制度は、反共親米保守の自民党一党優位の政治体制であった。 この制度は政権交代がほとんどなかったため、安定していたと言える。 高度経済成長は、政権が安定していたからこそ実現したという解釈もできる。
安定は利権構造の固定化というマイナス面を生んだ
安定していたというプラスの解釈ができる一方、利権構造が固定化しているというマイナスに解釈することも可能である。 自民党が政治を行い、自民党に関連する団体が自民党を支援するという利権構造が固定化した。 農業団体であるJAは自民党を支援し続け、自民党は農業を保護し続けた。 鉄や自動車業界も同様であり、自民党が支援に対する保護を行った。
新興産業が政治の重点項目にならないという問題
固定化の結果、それ以外の新しい新興産業、例えばパソコンやソフトウェア、インターネット、AIなどが政治の重点項目になることはなかった。 政党間の競争が事実上起きていない。 選挙が行われてもほぼ自民党が議席を獲得し、政権交代は起きなかった。 これは市場による自然選択がない状態であった。 不裕層と若者の政治の無関心化が進んだ。
アメリカのIT革命は政権交代のある民主党政権で起きた
もしアメリカが保守共和党の一党優位政治であったならば、1980年代に半導体戦争で日本に負けた後、パソコンやソフトウェア、ネットのIT革命が起きた可能性は極めて低い。 共和党の一党優位体制だったら、鉄鋼や石油化学産業の保護を重点政策にし続けた可能性が高い。 しかし、アメリカは民主党との政権交代があるため、1990年代にIT革命が起きたのは革新的な民主党のクリントン政権の時であった。
クリントン政権の8年間でIT革命の種が蒔かれる
クリントン政権は1992年から2000年までの8年間の政権であった。 この8年間でIT革命の種が蒔かれ育ち始めた。 インターネットの商用化が行われ、元々軍事技術であったインターネットが民間に解放された。 国防総省のネットワークが完全に民間に解放され、インターネットの商用利用が合法化された。 これがYahoo!やAmazonの創業に繋がる。
通信規制の改革や技術投資の推進が行われた
通信規制の改革として、テレコミュニケーション法の大改正が行われた。 ISP〔インターネット・サービス・プロバイダー〕、ケーブル、電話の競争が自由化され、ベンチャーの通信事業への参入が急増した。 技術投資の推進として、クリントン政権のアル・ゴア副大統領が主導した情報スーパーハイウェイ構想があった。 政府が光ファイバー、教育ICT、ネット接続支援整備を支援した。
VC市場の活性化やIPO市場の柔軟化もIT革命を後押しした
ベンチャーキャピタル〔VC〕市場の活性化として規制緩和が行われた。 中小企業投資会社制度の見直しや、ベンチャー投資の税制優遇と融資の拡充が実施された。 IPO〔新規上場〕市場の柔軟化も行われ、NASDAQ市場が拡張された。 新興企業向けの市場の上場ルールが緩和され、スタートアップが資金調達しやすくなり、これがGoogleやeBayやAmazonなどの急成長の要因となった。
NASDAQ市場の拡張はVCの出口を確保し創業支援を促進した
NASDAQ市場は元々ニューヨークや東京に次ぐ規模であったが、市場が拡張されルールが緩和されたことで、スタートアップが資金調達しやすくなった。 入口はVCが創業資金を出し、出口であるNASDAQ市場が拡張されたことで、VCも創業支援のお金を出しやすくなった。 クリントン政権は、入口のVCと出口のNASDAQ市場を拡充した。 研究開発〔R&D〕の支援として、技術の支援プログラムが拡充され、民間研究がアメリカ政府によって支援された。 これらは全て革新系の民主党クリントン政権で実行され、IT革命が起きた。
日本の産業構造の主役は数十年間変わっていない
一方、日本は自民党一党優位の政治であり、二大政党制ではない。 1955年から2025年までの70年間で、自民党が下野したのは、細川内閣の1年間と民主党政権の3年間の合計4年間だけであった。 戦後の日本政治はほぼ自民党による保守系の政治であり、第一次産業の農業や第二次産業の鉄、自動車などが保護され続けた。
新興産業の成長が日本では抑えられ産業構造が停滞する
農業、鉄、自動車などが保護され、その代わりに新興産業は日本では伸びなかった。 1980年代の日本産業の主役は自動車であり、2020年代の主役も自動車である。 数十年間日本の産業の主軸であった自動車産業は、政府が保護するだけではついに持ち堪えられなくなってきている。 CIAの支援によって作られた1955年体制の制度的な時代遅れが、国民の目の前で可視化されてきている。